2014年4月7日月曜日

 杉浦醫院四方山話―326『健造先生胸像』

 当117話「彫刻家・笹野恵三氏」でも紹介しました健造先生の胸像について、来館者から貴重なお話を伺いました。この胸像が建った経緯や制作者について は、117話をお読みいただくとして、杉浦家母屋の玄関前右手に現在もひっそり建つ石の台座にまつわる歴史です。                   醫院応接室にある健造先生の胸像を観た来館者が「この胸像は、学校にあった胸像と同じだね。こういう顔をした立派な先生を確か昭和18年にみんなで送ったのを覚えてるさ」と切り出し「校長先生が、先生もいよいよ出征される時が来ましたという話をして、ここにタスキが掛けられ、みんなで出征兵士を送る歌を歌って送っただよ」と。                                                太平洋戦争の戦局が悪化する中、武器生産に必要な金属資源が不足し、それを補うために、官民所有の金属類の回収が始まったのは、1941( 昭和16)年9月からですから、2年後の昭和18年に押原小学校にあった頌徳碑の健造先生胸像も供出されたようです。杉浦家土蔵の鉄格子も切られて供出した跡が残っていますから国家総動員法にもとづく金属類回収令で、官民問わず厳しく供出を迫ったのでしょう。

 

 私は、頌徳碑 のブロンズ像を台座から外しての供出ですから、学校では夜間人目につかないようそっと外して、機械的に供出したものと思っていました。しかし、兵隊に行く人々に「出征軍人」のたすきを掛け、愛国婦人会のたすきをした女性をはじめ多くの人たちに見送られながら、ふるさとから過酷な戦場へとおもむいた出征兵士と同じように健造先生の胸像も「出征軍人」のタスキが掛けられ、子どもや教職員が歌う出征兵士を送る歌に送られての「出征」だったそうです。現在も駅伝や選挙などでは、「タスキをつなぐ」とか「タスキに鉢巻で気を引き締める」とか、タスキは何か意味ありげな存在であるのもこう云った歴史からくるのでしょうか。

 「祖父が溶かされてしまうのは何とも耐え難く・・」と床下に隠して、「鍋釜まで全て供出した」と云う家族の思いからか、応接室の健造先生は、現在も裸婦像と向かい合って、静かに微笑んでいるかに見えます。

 

一転した戦後民主教育の中で、個人崇拝に繋がる云々で、学校に残った頌徳碑の台座も杉浦家に返還され現在に至っているわけですが、純子さんも含め「この胸像を学校に寄付してもよっかったんですけど・・・」の思いも強かったことと思います。

 台座だけの頌徳碑より、「この胸像を台座に取り付けた方が」との指摘もありますが、戦争末期の金属供出の歴史を語り継ぐ意味でも台座だけの頌徳碑の存在は貴重です。