「明治参壱年七月 清韻亭」と箱裏に書かれた「珈琲茶碗」のセットを、「西条の片田舎にあるものですから、古いだけでたいしたものじゃないと思いますが調べてみてください」と純子さんが持参下さいました。明治31年ですから健造先生が求め、愛用していたもので、箱は六客分入るように仕切られていますが、「奇陶軒 桝吉製」と書かれた器が三客と「小澤造」とある器が一客です。茶碗も皿も非常に薄く、ちょっと油断すると割れそうな瀟洒なつくりです。
杉浦家に残る骨董類は、手がかりさえあれば必ず古美術を扱うサイトで、同じ作家の作品や説明に行きつき、調べることができます。
今回も「奇陶軒桝吉製」としっかり判読できる器ですから、これを頼りに検索すると愛知県の「森宮古美術」のホームページに「川本桝吉 染付花鳥紋花瓶」の写真と説明がありました。ちなみにこの花瓶はすでに売り切れで、値段は分かりませんが、「川本桝吉」については、以下の説明がありましたので、そのまま拝借します。
幕末・明治期の瀬戸の陶工。常に製磁の拡張を改良を重ねて、安政一年(1854年)には既に西洋風の器を製作し、輸出磁器制作の先駆けとなる。明治九年(1876年)パリ尾万国博覧会に青花磁の額面を出品したところ、その作品があまりにも巧妙だったので磁器ではないと疑われた。その際に玉砕して審議を確かめたという。明治十八年(1885年)には退隠して奇陶軒桝山と号した。
「奇陶軒桝吉」製と号が残っている杉浦家の器ですが、川本桝吉は退隠して「奇陶軒桝山」と号したとありますから、「吉」「山」と一字違います。
そこで、更に検索すると、「陶磁器・唐津焼 茶道具 鶴田純久の章 お話」と云うブログに「川本桝吉」の稿があり、次のように記されていました。
瀬戸の陶工。幕末より明治期の人。1858年(安政五)五代川本半助の養子となり義弟六三郎を育成し、1864年(文久四)分家しました。常に製磁の拡張と改良を図り、1854年(安政元)すでに西洋風の器を製し輸出磁器製作の先駆をなしました。
1876年(明治九)青花磁の額面を製してパリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙であったので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます。1885年(同一八)五代川本半助の次男作太郎を迎えて養子となし、自らは退隠して奇陶軒桝山と号しました。作太郎は第二代を継ぎ桝吉と改め奇陶軒と号しました。また改良磁器製造家として有名でありました。器に奇陶軒桝吉製の六字を書く。
1876年(明治九)青花磁の額面を製してパリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙であったので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます。1885年(同一八)五代川本半助の次男作太郎を迎えて養子となし、自らは退隠して奇陶軒桝山と号しました。作太郎は第二代を継ぎ桝吉と改め奇陶軒と号しました。また改良磁器製造家として有名でありました。器に奇陶軒桝吉製の六字を書く。
これで、右の器の作者は、「奇陶軒桝吉製」の六字を書いた川本桝吉の養子・川本作太郎であることが判明しました。
作太郎は、明治19年に養子となったとありますから、健造先生が購入した器は「明治31年」ですから、作太郎の全盛期の作品と云えるものでしょう。
また、「パリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙であったので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます」とあるように器全体がこんなに薄く作れるのかと云うほど薄いのが川本父子の器の特徴のようですから、杉浦家の器と合致します。
もう一客の「小澤造」とある器は、今のところ出自は不明ですが、奇陶軒桝吉製とよく似たつくりですから同時代の名工のものと思いますが・・・・どなたか情報や知識がありましたらご教示ください。