
この全国木喰会の会長は、名古屋大学教授の宮坂宥勝氏が、名誉教授となった後も務め、京都支部や新潟支部などの活発な活動報告や研究提言などアカデミックな内容を堅持してきました。
この全国木喰会が、現在「風前の灯」であることを丸山氏が悔いて話して下さいました。木喰行道の生まれ故郷、丸畑に旧下部町が作った「木喰の里微笑館」と行道の生家である伊藤家の「木喰記念館」に行かれた方はお気づきのことと思いますが、資料館である「木喰の里微笑館」にある微笑仏は、レプリカばかりで木喰行道が彫った微笑仏は伊藤家の「木喰記念館」の押入れに五体あり、当主の伊藤勇氏は、容赦なく「微笑館」を蔑み、伊藤家の正統性を強調します。丸畑では、それ以前にも四国堂の木喰仏の所有権を巡って、生家の伊藤家当主と村民の争いが起こり、裁判沙汰の末に四国堂は解体して薪となり、仏像はほとんど他に売却されて四散したと言いますから、「木喰の里微笑館」と「木喰記念館」の争いも熾烈なものだったことでしょう。
その伊藤氏が、事もあろうに諏訪在住の全国木喰会会長宮坂宥勝氏に会長職を自分に譲るよう談判に及んで、重鎮宮坂氏が身の危険も感じ降りてしまったことから、山梨の木喰会も有名無実になってしまい、全国会員も減少しているそうです。現在、会長の伊藤氏が発表している木喰関係の文書も大部分は、丸山氏の研究成果と文章の書き写しでありますが、丸山氏は殊更異を唱えず、じっと現在とその先を案じ、苦慮されていました。
風土を伝承していく上で、下部町古関丸畑の「争い」は、他山の石として大変教訓的です。不幸な状態にある「木喰の風土」を30数年に及ぶ研究成果と客観的な資料で伝承していく「場」は、県立博物館が火中の栗を拾うのが一番と考えますが、ご高齢な丸山氏のご教示を受けられるうちに当館でお預かりして置くことも意義あることと思います。