杉浦醫院四方山話―414 『横山宏先生からの寄贈品』
元県立中央病院医院長で現在、恵信甲府病院名誉医院長の横山宏先生から電話をいただきました。全く面識のない横山先生からの電話を受けた私の感想は「大変な人格者だなあ」の一言に尽きました。
電話で「私も88歳になり、3月で60年間講義した県立大学も辞めましたから、授業で使ったスライド写真をはじめ地方病関係の医学資料を整理しました。県立博物館に寄贈しようと連絡したところ引き取れないと云うので、先日の新聞で杉浦先生の所が資料館になったのを知りましたから、そちらで活かしてもらえたらと思って電話しました」との事で「必要ならお届けしますよ」とまでおっしゃっていただきました。
過日、加茂・林・梶原の三先生方が来館くださった折にも「中央病院の横山先生は・・・」と、お話も伺っていましたので、「こちらから戴きにあがります」と、ご自宅を想定して答えると、現在も恵信甲府病院で週何日か診察しているとのことで、先生の出勤日に合わせ伺いました。
通された「理事長室」には、既に段ボール箱から溢れんばかりのスライド写真が用意されていました。「これを写すプロジェクターももう無いでしょう。球も6000円程かかりましたが探して付け替えておきましたから一緒にどうぞ」と映写用のプロジェクターやマウントまで至れり尽くせりで恐縮してしまいました。
また、先生が執筆された地方病関係の論文や機関誌などの資料も一括されていて、書かれた経緯やエピソードも説明いただきました。
ご多忙の中、限られた時間でしたが、現在の県立大学や県立中央病院の歴史まで的確にご教示いただきました。
三郎先生は、この地で開業医として患者の治療にあたるとともに1949年(昭和24年)には、山梨県立医学研究所地方病研究部長に就任しています。
この「山梨県立医学研究所」は、昭和20年の甲府空襲で全焼した「山梨県病院」をどう再建するかの過程で出来た研究所でしたが、昭和26年3月に今度は火事で全焼してしまったそうです。
2年後の昭和28年には、山梨医学研究所附属病院としてスタートし、後に「県病院」となり、更に「県立中央病院」へと名称が変更されて現在に至っているそうですから、三郎先生が就任した山梨県立医学研究所は、現在の県立中央病院の前身であることが分かりました。
横山先生も「県病院からも県立博物館が出来る時、地方病関係の資料を移管しましたから、開館した時、先生方と観に行きましたが、あの展示にはがっかりしました。A先生はー山梨県の地方病を何だと思っているのかーと大変怒っていましたよ」と、加茂、林両先生と同じ思いを県博に抱いていることも知りました。
資料の収集、収蔵、保管も博物館の大事な任務の一つでしょうが、開館して10年、一度も公開されずに眠ったままの現状は、資料提供者からすれば「何とかしたい」と思うのは当然でしょう。
県立博物館が掲げた「ハブ博物館構想=県内各地の自然、文化遺産や文化施設等と結びつき、それらと相互に連携しながら地域の文化振興や活性化をもたらす、いわばネットワーク博物館」に鑑みても収蔵資料の移管も含め、県立博物館には、目に見えるハブ機能の発揮を期待したいものです。