2015年3月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―402 『山本酉二氏の自決-2』

 平譲で敗戦を迎えた山本酉二氏は、ロシア軍の捕虜になる事を拒み割腹自決し、現地で野辺の送りを受け、土葬された事も小池上官の手紙には報告されていますが、手紙の最後には『以上のような訳でありますが、部隊長其の他上官とも相談の上、死亡證書は「衝心性脚気」と致しました。これはいろいろの事情から一応こうして整理したのでありますから承知して戴きたく(後略)』と、死因は「衝心性脚気」と云う病死で「整理」されたことも報告されています。



 酉二氏のように個人の意思による自決では、ゆくゆく軍人恩給や靖国神社への祭神合祀に支障をきたすことを上官が慮っての病死扱いだったのか、前夜、自決を止まるよう説得した上官の命に背いた自決でもあることから、自決者を出したことは、上官や部隊の責任問題にも繋がると合議されての事か、定かではありません。 



 山本家では、酉二氏の葬儀を昭和22年10月10日に西条の自宅で行いました。この葬儀に寄せられた二人の方の弔辞が残っています。

一人は酉二氏の甲府中学同級生・花形博氏から、もう一方は、西条在住だった井口伝氏からのものです。

 井口氏の弔辞は、ご覧のように2メートル弱に及ぶ渾身の弔意文で、井口氏の酉二氏自決への思いが綴られ、読み応えと共に井口氏の死生観も表出されていて考えせられます。

『山本酉二君は克く伝統八百年の山本家の家門にうるわしの花を咲かせて下さいました 私は何よりそれが嬉しいのです 敗戦国民として占領治下にある吾々が戦死を賛美するのはどうかという向きもないではありませんが 私は否と答えます』


『人間道徳も社会道徳も枯れ果てた一個の普遍的実在ではないのです 時と場所とに脈々と波打つ生命の実体をこそ吾々は道といふのです (中略) 壮烈に散花せられたことは誠に男子の立派な最期であったと云わねばなりません あの時はああする事が最も美しい最も高い臣民の道だったのです 酉二君それでいいのです』


『 (前略) 一生涯を通じて君の宿願は悠天の大義に生きんとする事でした そして見事にその宿願は達せられました 生死一如と申します 大なる死は大なる生と其の軌を一にします (中略)  詩聖ゲーテは「地上にある日に確乎たる我等は永遠の不滅を保証する」と云われました 君の二十五年の人生は永遠に朽ちない光であり不滅の花でもあるのです 酉二君今や静かに冥し給へ』



  自決した酉二に捧ぐ弔辞を井口伝氏は、究極のオカルトで一貫させていますが、山本家が設定した葬儀日の10月10日は、後に平和の祭典・東京オリンピックの開会式の日となり、その後「体育の日」として国民の休日にもなっていますし、昭和町の「ふるさとふれあい祭り」の開催日にもなっていますから、山本家の先見性も含め酉二氏の意志と無縁ではないようにも感じ、「目には見えない神秘性」をオカルトと定義するならば、井口氏が酉二氏の永遠の魂を謳いあげた弔辞は、見事の一言に尽きます。