昭和9年の2月20日前後の新聞を紹介してきましたが、東京朝日新聞は薬の広告が8割を占めていました。全面広告の「ブルトーゼ錠」をはじめ「肺ぜん息にイマジミン」や「生殖器障害に特効コムポルモン」、「感冒予防にわかもと」「虚弱児童に飲み易い肝油」「ひび・しもやけ・やけどにエゼン軟膏」等々症状に合わせた薬の広告に混じって「正義が勝って製薬の王者今や起てり!ホシ胃腸薬」と、勇ましいフレーズの広告もあります。
一方、山梨日日新聞はじめ地方紙の広告主は、医院と銀行が8割です。昭和9年当時の医院は全て「醫院」表記で、開業医の広告ですから、「杉浦醫院」も探しましたが、広告を出す必要もなかったのでしょうありませんでした。
中央紙の東京朝日新聞と地方紙の医院広告で共通した特徴は「花柳病(かりゅうびょう)」「花柳病科」と云った現在では目にしない病気の醫院広告の多いことです。
日本の伝統的な交遊スポットを「花街(かがい・はなまち)」と総称し、高尚には芸子の存在もあり「花柳界」と呼んでいたことから、性病をオブラートに包んだのが「花柳病」でしょう。ですから、カルテには、花柳病と云う病名の記載はなく、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、梅毒の三つの性病のいずれかだったようです
江戸時代の遊郭や兵士の性病予防の必要性から敷かれた日本の公娼制度は、GHQによる公娼廃止令が出るまで、売春を特定目的のためには有用なものと認め,いわば必要悪としてその存在を承認してきました。
公娼制廃止後も赤線地帯、青線地帯と云われた売春目的の特殊飲食店が集まった地域が温存され、その後もトルコ風呂と呼ばれた特殊浴場等を経て、「手を変え品を変え」の風俗店で、売買春は、現在まで綿々と続いているのは日本に限りません。いわゆる「従軍慰安婦」問題の困難さと本質もそこに集約されているのでしょう。
医学の進歩や新薬の開発などで、病の主流も時代と共に変わり、現在では、花柳病も死語となりましたが、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されてからもこの菌は生き続けていると云われていますから、地方病同様、流行が終息しているだけで、根絶されたわけではないと云うことでしょう。