2014年9月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―360 『塚原 等 氏-1』

 来春開館予定の「やまなし近代人物館」で紹介される50人の中には、昭和町から杉浦健造氏と塚原等氏が選定されたことが過日公表され、健造先生については紹介しましたが、塚原等氏については、情報が少なく詳細を報告できませんでした。

 この度、町立図書館のIさんが、図書資料から塚原氏の情報を収集してくださいましたので、それを基に塚原等氏の足跡をたどってみたいと思います。

 

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」によると、「山梨県の特殊教育は、先ず盲人、続いて聾啞者に対する私的な施設の開設から始まった」そうですが、いわゆる「劣等児」や「低能児」は、明治、大正、昭和前期まで「就学免除」とか「就学猶予」とし、学ぶ機会が長く閉ざされていたようです。

まあ、学習機会も後手後手に回されてきたからこそ、こういう教育の歴史資料に「劣等児」「低能児」といった言葉が堂々と使われていたのでしょうが、統計のある明治43年で、「尋常小学校の教科を修めてない者」は、男女児童400人以上、昭和4年になっても約150人を数えています。


 今回、塚原等氏が選定された功績は、山梨県初の盲人学校である「山梨訓盲院」を設立し、初代校長を務めたことによりますから、山梨訓盲院について先ず触れておきましょう。

現在の山梨県立盲学校「校訓・和顔愛語」=なごやかな顔と思いやりのあるやさしいことば

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」には、「大正8年になって、甲府の盲按摩業者たちによる熱心な運動が実を結び、当時山梨日日新聞の記者で、盲人に対する理解者であった中巨摩郡旧西条村の塚原等を院長とする山梨訓盲院がアルゴン牧師の斡旋によって甲府市旧百石町のキリスト協会に開校された」とありますから、この「山梨訓盲院」も心ある民間人が設立した私立学校で、その中心になったのが塚原等氏だったことが分かります。

 

 しかし、設立当初の生徒数は20名足らずで、社会の無理解もあって、その経営は資金面でも厳しく、「職員はもちろん生徒も募金活動や啓蒙宣伝活動に懸命であった」とあります。

その為でしょうか、山梨訓盲院の名簿には、校長 塚原等 以下、講師、職員数名の後に「顧問」14名の名簿があり、当時の貴族院議員名取忠愛等と共に杉浦健造、吉岡順作と云った医者や実業家の名前が連なっていますから、これらの名士からの資金援助が学校経営には欠かせなかったものと思われます。


 山梨訓盲院第一回卒業生「永関ためよの回想」と云う一文も収録されていますが、「募金活動の苦闘」が縷々綴られ、閉めは「発起人の塚原先生には、資金調達のため、東京に在住している名士の所を狂奔中、過労のためその宿舎で脳溢血で倒れ、学校実現の寸前にして、そのまま帰らぬ人となられたのであります」とあります。

 「山梨訓盲院」を「私立山梨盲唖学校」へと昇格させるべく、資金集めの東京で殉職した塚原等氏の遺志が、現在の山梨県立盲学校に結実しているのでしょう。