2014年2月27日木曜日
2014年2月26日水曜日
杉浦醫院四方山話―316 『1ホール・クロック完全修復』
当311話「古時計・ホールクロック」で紹介した杉浦醫院の大時計が、すすき時計店の鈴木省三氏の手により、完全に修復され、「コチ・コチ」と確かな時を刻み始めました。
この時計は、重錘式置時計という機械時計で、動力源は重りで、重りの垂れ下がる力で動きます。
1キロの重り2個を巻き上げると重りを吊り下げているワイヤーが文字盤の裏の歯車を動かし、約5日間で重りは徐々に下がって時を刻むわけですから、部品は全てしっかりした金属で出来ていて、歯車がしっかりかみ合っていなければ100年、200年と動き続けられないそうです。今回、鈴木さんはたくさんの歯車を外してオーバーホールした上に金属に付着した黒い錆類も全て落す作業をして、可動に至ったようです。
鈴木さんは「預かったら、ちょうど大雪になって、この修理にかかりっきりになれました」と笑い「この重りを吊り下げる糸をいろいろ探し、釣糸のテグスなども使ってみましたが伸びてダメだったので、1ミリのワイヤーを入手して何とかなりました」と「遅れたり進んだりの調整は振り子の長さで直せるので、現在は、1週間に1分弱進むかなといった所まで調整しました」と修復した大時計を我が子のように丁寧にリセットしてしてくださいました。
「文字盤だけは、何を使ってもこれ以上きれいにはなりませんでした。まあ古色蒼然としてかえってピカピカより味がありますね。箱もいい木で出来ているし、振り子もこの時代のモノはいいですね」と。
純子さんの記憶では「最初は待合室にあったものを二階に上げた」そうですから、修復された大時計は、当初あった待合室に設置してもらいましたので、杉浦醫院玄関を入ると真っ直ぐ正面にこの時計が鎮座しています。
文字盤の12の下にある小さな丸い秒針盤が、振り子の揺れに合わせてコチ、コチと回ります。
3と9の内側にある穴は、ゼンマイ式時計と同じですが、ここに巻き上げカギを挿して、右に巻くと重りが巻き上がります。左右とも鈴木さんが、ここまでと表示してくれた高さまで巻き上げると重りが5日間で下まで降りて来るので、また巻き上げれば・・・の連続で、永遠に動く仕組みになっています。
クサリで重りを下げ、クサリを引っ張って重りを上げるクサリ式の重錘式置時計は、たくさんありますが、重りを糸で吊っていたこの時計は、鈴木さんも初体験だったそうですから、実物をじっくりご鑑賞ください。
大変なお手数と技術で、見事よみがえった大時計ですから、鈴木さんに記念写真をお願いしましたら「そんな、仕事で直しただけだから・・・恥ずかしいよ」と嫌がられましたが、「一枚だけ」と無理を言って、時計と並んでいただきました。
2014年2月19日水曜日
杉浦醫院四方山話―315 『観測史上初の大雪-2』
「第二の故郷・山梨にとっては哀しいばかりだ」と結んでいるジャーナリスト・上杉隆氏の『なぜNHKは山梨の大雪災害を報じないのか?』は、NHK職員を履歴に記載して、一悶着あった上杉氏の指摘ですが、傾聴に値します。
上杉氏は、都留文科大学卒業ですので、「第二の故郷」と云うことなのでしょうが、取材現場で殉職した同窓の山本美香さんと同列の「ジャーナリスト」には個人的には?で、「自称」が必要と思う言動も多いのですが・・・
ソチ・オリンピックは、マスコミの大騒ぎに反して「結果はどうもなー」が実感なのに、このまま東京オリンピックへと日本中「オリンピック漬け」状態になることへの警鐘としても貴重かと、ヤフーニュース(2/16)から転載させていただきます。
『なぜNHKは山梨の大雪災害を報じないのか?』
14日から振り続いた雪は、山梨などの甲信越地方を「陸の孤島」にしている。
「県内だけでも、家に帰れず、車の中で過ごしている人々が数百人にのぼるのではないかとみている。凍死や一酸化炭素中毒など死の危険に直面している人も少なくないはず。政府は本当に対応を急いでほしい」(県庁職員)
日本のテレビ局がこの命題を突きつけられたときに、どちらを選択して来たか、云わずもがなであるが、筆者の第二の故郷・山梨にとっては哀しいばかりだ。
2014年2月18日火曜日
杉浦醫院四方山話―314 『観測史上初の大雪』
山梨県はじめ関東甲信越地方に降り続いた大雪は、県内至る所で1メートルを超える積雪となりました。雨との予報もありましたので、もうやんで雨にでもなるだろうと14日の昼過ぎに撮影したのが下の写真です。結局一晩中降り、15日も午前中まで雪でしたから、出勤出来ず1メートル超えの雪景は撮れませんでした.
甲府盆地は、全てのルートが絶たれ「陸の孤島」と報道され、多くの方々からお見舞いの電話やメールを頂戴いたしました。幸い、昭和町一帯は停電もなく杉浦家も当館も灯油等のストックもありますから、「美味しいモノが食べられない」位の不便ですから、酒池肉林的日常を反省する意味でも天啓と受け止めるしかありませんが、木曜日また雪の予報もあり、今回同様、予報が大幅に外れ、雨になってくれることを願うのみです。
杉浦醫院雪景色を写真で、ご鑑賞ください。
2014年2月13日木曜日
杉浦醫院四方山話―313 『昆虫採集セット-2』
前話で紹介したように 「昆虫採集セット」は、昭和30年代まで少年の夏休みの友として、文具店や駄菓子屋には必ずある商品でした。100円と云う値段も子ども向けに設定され、能書きは立派でしたがプラスチック製の安っぽいセットで、「ルーペ」などと気取った虫メガネもレンズまでプラスチックでした。当然、昆虫標本づくり以外にもこれらのセットを使っての「ごっこ遊び」もしました。代表的なのが、注射器を持って注射を打つ真似をする「お医者さんごっこ」でしたが、私は奥手だったので、男同士まででしたが、女の子を看護婦さんに付けてのツワモノもいました。
確か高校生の時でしたから、昭和40年初頭に、このセットの注射器に水を入れて水鉄砲遊びをしていた際、水と一緒に注射針も飛んで、少女が失明したという事故が、大々的に報道され「昆虫採集セット」が槍玉にあがったのを覚えています。針を付けたままやったかどうかまでは記憶にありませんが、私もこの注射器で水鉄砲遊びもしましたから、販売を禁止すべきだと云った報道は良く覚えています。
小学生の頃、当たり前のように鉛筆削りとして使っていた「肥後守(ひごのかみ)」のナイフから始まって、学校の回転式遊具や公園のジャンボ滑り台など「安心・安全」の流れの中で、使用禁止になって、子どもの世界から消えていったモノはたくさんあります。きっかけは、必ず何処かで起こった事故でしたから、「昆虫採集セット」もこの失明事故がきっかけで消えたのでしょう。
また、昆虫用とはいえ注射器でしたから、悪い遊びが高じて、人にも使ったり、覚せい剤を打つ道具に使ったりもあったのでしょうが、本来、国家免許を取得した医療関係者が使うものを子どもたちに野放しにしておいて良いのかと云う、管理社会が後押ししたことは想像に難くありません。

肥後守ナイフは、研げば切れ味もよみがえり、使うほど愛着も湧く素晴らしいナイフでしたが、それに代わって推奨されたのが「ボンナイフ」というチャチなモノでした。写真でもお分かりのように歯は取り替え可能なカミソリでしたが、確か「安全カミソリ」と云う商標だったと思いますから、刃物でも「安全」が付いていれば良かったのでしょうか?この後、「鉛筆削り」と云う器械的なモノが一気に広がって、左手に持った鉛筆を右手の刃物は固定して「削る」という手の文化は衰退したように、現在の「昆虫採集セット」は、「虫取り網」と「虫かご」を指すようになり、注射器や殺虫液など本来の「昆虫採集セット」は、昔懐かしいアイテムとなってしまいました。
刃物で思い出しましたが、昭和40年代頃まではあったと思いますが、理科の実験でやった「フナの解剖」も消えて久しいですね。小学校で「フナ」、中学で「カエル」でしたが、高校の生物では、この手の実験は無く、受験用の講義が中心で、思い出もありません。生きているフナやカエルをメスで切り開くために殺すわけですから「残酷だ」と云う批判もあったのでしょうが、女の子とグループでの解剖実験は、「昆虫採集セット」で昆虫を殺し慣れているうえに感受性も乏しい私などには、ハレの場でしたから、こういう「場」も消えた現代の男の子は、「かわいそうだなあー」と思うのですが、スポーツ少年団と云う正々堂々ルールに従って競う紳士的なステージもたくさん用意されていますから、「大きなお世話」でしょうか。
※画像は,「明石機工有限会社H・P」と「まぼろしチャンネル」から拝借しました。2014年2月8日土曜日
杉浦醫院四方山話―312 『昆虫採集セット-1』
前話の「大きな古時計」は、高さが170センチ程あり、地震などで転倒しないように時計と裏の壁は針金で固定されていました。今回の修理で、裏まできれいに拭き掃除をする為、固定を外して前に移動しました。すると、壁と時計の隙間に埃にまみれて眠っていた懐かしい「昆虫採集セット」がありました。
夏休みの苦い思い出は、「夏休みの友」と「自由研究」でした。こういった課題や宿題から逃れられたらどんなに楽しい夏になるだろうかと悩んだ記憶もありますから、学校が勝手に押し付ける「夏休みの敵」と「不自由研究」は、子ども中心の発想からは生まれない産物だと思うのですが・・・・ そう云えば、9月には講堂に集められ「自由研究発表会」もあり、選ばれし高度な研究を嬉々として発表していた優秀な同級生もいましたから、要は、落ちこぼれの恨み節ということでしょう。
そんな訳で、私の自由研究は、毎年「昆虫標本」でした。そういう意味では一貫した「研究」をしていたことになりますが、そんなのは全然評価されませんでしたし、なぜか私同様、その他大勢の男子は「昆虫標本」が定番でした。
「虫取り」は、貧しい戦後の少年たちにとっては金のかからない遊びで、湯村山に毎日のように通い、採った獲物を自慢して喜んでいましたから、遊びの延長の自由研究ですが、虫かごに獲物を入れて提出するわけにもいかず、標本にしたと云うのがかろうじて「研究」だったのでしょう。そこで世話になったのがこの「昆虫採集セット」だった訳です。
キレイ好きなWさんが、ご覧のようにキレイに磨いてくれましたから、新品同様ですが、箱中央下にある青い蓋のボトルが貴重で、研究をしていると云う実感を味わうことが出来る代物でした。色あせしていますが、向かって左は赤で、右が青のボトルでした。
先ず、生きているカブトムシの腹に赤いボトルの液を注射器で打ちます。しばらくして力強かったカブトの足の動きが鈍くなるのを見計らって、青いボトルの液を注射器に吸い、打ちます。
この連続動作の時に、毎年、気分は野口英世だったのも思い出します。なぜ毎年、野口英世だったのか?多分、高名な医者の名前で知っていたのが、野口英世だけだったのでしょう。
このセットの上箱の裏には、「注射器・注射針から始まって防腐液(青)・殺虫液(赤)や虫メガネではなく、聞きなれない「ルーペ」に「ドクツボ」など以上11点」と表記され、何だか医者になったような気分にさせてくれる仕掛けになっていて、その他大勢組は、みんな一緒だったと思います。
この偉大な「昆虫採集セット」を現在の子どもたちは知りません。そんな不幸があって良いのかと私などは思いますが、今日は降り積もる雪ですから、「杉浦醫院雪景」撮影に出ますので、その辺については、次話にて・・・
杉浦醫院四方山話―311 『古時計・ホールクロック』
杉浦醫院を見学に来た小学生など子どもたちに人気の一つは、「大きな古時計」です。 写真のように2階階段の踊り場に設置されていて、窓を開け放つ季節には、外からも「清韻先生寿碑」と肩を並べる丸い文字盤が見えます。純子さんは「最初は、待合室に置いたそうですが、子どもが扉を開けて針を回したり、振り子を止めたりで修理が続いたので、2階に上げたと父が言っていました」と、何時の時代も子どもの興味は同じようです。3時を指したまま止まっていたこの時計を役場近くの「すすき時計店」に修理が可能かどうか見てもらいました。このすすき時計店は、店主が修理再生したアンティーク時計やブランド時計を保証付きで売っていることからも「鈴木さんなら直せる」と云った確信のようなものがありました。

寒い中ご足労いただいた鈴木さんを二階に案内すると開口一番「これは、明治か大正のモノで、昭和のモノじゃないね」に続き「この時代のモノは修理したことないけど、構造は昭和のモノより単純なはずだから・・・」と扉を開いて覗きこみ、「この文字盤を外して裏の機械部分を見ないことには、修理できるかどうかも分からない」ということで、文字盤外しにかかり ました。 百年以上経過している古時計ですが、現在のセイコーが、起業した明治25年当時の社名「精工舎」の表示がありますから、鈴木さんも「部品は当然もうないけど、これは日本製だからピンなんかは自分で作れば何とかなるから、・・・」と期待を持たせつつ文字盤を止めているネジを外そうとするのですが錆びついて、なかなかドライバーが回りません。小さなネジで合計6か所がきっちり止められていますから懐中電灯片手に何度も挑みますが頑として動きません。すると、鈴木さんは、ドライバーを先のとがったペンチにかえ、ネジの頭部分を挟んで少しずつ回し始め、約1時間かけ6本のネジを外し、箱から文字盤と機械部分を取り出しました。 「電気的なものは使わず、重りの重力で動く時計だけど重りをクサリで吊り下げているのが普通だけど、これは糸だね。はて、何の糸かなぁ。糸をロウで強くしているようだね」と好奇心の裏に自信ものぞかせる姿に「その気になれば部品を作ってでもと云う姿勢と探求心の職人気質は、本当にカッコいいなぁ~」と感動しました。
この大きな古時計は、「ホール・クロック」と云うのが正式名称のようで、ヨーロッパのダンスホールなどに置かれていたものが明治の文明開化で日本にも入り、精工舎も製造を始めたようですが、当時は外国製のモノの方が多かったそうです。「大きなノッポの古時計 おじいさんの時計」と云う歌が流行ってからは、『グランドファザーズ・クロック』とも呼ばれ、日本の家屋も大型化したことから最近は人気もあるそうです。
「これを持ち帰って、修理できるかどうか調べてみます」と鈴木さんは外した文字盤機械部分を抱きかかえてお帰りになりました。「鈴木さんなら必ず直す」と見送りながら、一層確信した自分を「身勝手な野郎だ」ともう一人の自分が嗤いました。
2014年2月5日水曜日
杉浦醫院四方山話―310 『道志七里』

先にも触れた「地方病は死なず」の泉昌彦氏の著書「よばい星」 は、「郷土の風俗史2000年」と銘打ってあるように山梨県内 の民俗・習俗を「よばい」を通して書き記してあります。
<「よばい」という言葉は、極めて下品でセンスのないニュアンスを含んでいるように思われがちであるが、実は古代社会から大正時代まで、全国津々浦々で全盛を極めた日本の性風俗で、山間部ではつい昭和30年頃まで、筆者が実際に研究のために目撃した結婚の手段であった。>として<流れ星をよばいに例えて、「よばい星」というのは、国語辞典にも載っている日本の古語である>とまえがきにあります。
ここには、昭和15,6年に若き泉氏が教員として赴任した小菅村で体験した村営宿舎によばってきた娘の実話から古事記や万葉集、伊勢物語、古今和歌集などに登場する「よばい」をまとめた労作です。泉昌彦氏は、日本の民俗学の大御所・柳田国男などが「性」と「やくざ」と「天皇」の民俗学を取り上げなかった事は片手落ちだと反発して、フィールドワークの研究手法で、「性」の民俗学を研究発表した赤松啓介氏と重なります。
この「夜ばい星」では、 山梨県の僻地の代名詞としてよく言われてきた「道志・秋山・丹波・小菅」での取材が多いのも特徴ですが、泉氏は、フィールドワークと共に村史など文献資料にもあたり精査しています。その経験から、異色の村史として、「道志七里」を取り上げています。
村史・町史・市史は、全国の市町村で編んでいますから、昭和町にも「昭和村史」「昭和町史」があります。この編纂作業も全国共通のようで、首長を委員長に村(町・市)史編纂委員4,50名が選出され、更に編集協力員100名以上の組織で、役場の担当課が事務局となって、分担して執筆、編集して仕上げています。
道志村の村史「道志七里」は、昭和28年に伊藤堅吉氏が独力で書き上げ、伊藤堅吉著となっています。個人の視点で一貫する「道志七里」は、その一点だけでも異色ですが、柳田国男でも避けた「性」の領域でも道志村における「よばい」についても赤裸々に記されています。 多くの編集委員の合議や協議を経る村史や町史では、触れられてない領域があることを「道志七里」がクローズアップしたと評価され、「よばい星」にも「道志七里」からの引用が随所に見られます。
このユニークな「道志七里」ですから、資料的にも貴重なのでしょう、現在道志村役場では「歴史と民族を巧みにマッチさせた名編を半世紀ぶりに復刻!」のコピーで、復刻版「道志七里」を通信販売しています。コピーの「民族」は「民俗」の間違いでしょうが、さっそく、昭和町立図書館にリクエストをしておきました。
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