2014年1月25日土曜日

 杉浦醫院四方山話―307 『泉昌彦「地方病は死なず」2』

 前話で紹介した泉昌彦著「地方病は死なず」は、その題名に全てが集約されています。昭和50年代後半の山梨県内は、官民問わず「地方病は既に終息した」という流れで、「終息だ終息だ」と云う声と雰囲気の中、ミヤイリガイ生息地の土地を安く買う先行投資が始まったり、かつての有病地では、地方病のことは隠すことが暗黙の了解事項となり、学校教育でも触れないのが一般化したそうです。そう云う状況を座視できない泉氏が、異議申し立て、警告の意味を込めて書いたのがこの「地方病は死なず」ですから、たいへん辛口の表記が本書の特徴でもあり、歴史経過の中で淘汰されるべき異論もありますが、伝えるべき正論も多く、貴重な資料であることは間違いありません。

 本書でも杉浦健造・三郎父子は取り上げられ、三神三朗氏と共に総じて客観的評価の証言なども随所に見られますので、ご紹介します。                                                   25ページからの「セルカニアの脅威」の中では、                                         

<セルカニアの脅威については、農民文学の作家、山田多賀市の主宰した「文化山梨」が、既に1950(昭和25年)に、驚異の実験データを特集している。実験者は、故杉浦三郎医師で、有病地では「地方病の神様」とされ、生涯を地方病の研究に打ち込んだ医師である。この実験は、セルカリアの侵入を阻止する予防薬と着衣の研究のために行われたもので、その方法は、まず・・・>で始まり、三郎先生の研究方法と結果が3ページに渡って紹介され、                                   <以上の実験で、出された二種類の薬品と、オリーブ色素を混ぜた薬品のみが、セルカリアの侵入を予防しうるとされた結果により、現在でも農作業をする際の予防油薬として使用されている。>と、結ばれています。

上記の内容を報じた昭和25年6月21日付けの山梨日々新聞

 69ページからの「ある医師と地方病」の中では、韮崎市の開業医・矢崎医師を取り上げ、取材した内容が記述されていますが、地方病患者を発見する名人と評判だった矢崎医師が自分の恩師は、杉浦三郎先生だと語っていたと次のように書かれています。                                  

<韮崎市では、地方病の研究は欠かせない医師の仕事であった。矢崎医師は、当時、既に地方病研究の第一人者とされていた杉浦三郎医師について猛研究をはじめた。「私の恩師は杉浦先生ですよ。私はこの先生について、検診から治療および地方病の生態実験とすべてにわたって教えを受けました。そのころのミヤイリガイは、100個すりつぶしてルーペで見ると、20個から30個の感染貝がみつかるほどです」と、その猛烈な蔓延ぶりを語ってくれた。話しは杉浦三郎医師の人となりに移り、「杉浦先生はきわめて無口でしたが、こと地方病のこととなると、急に熱を帯び、駆け出しに過ぎない私に、貴重な研究成果は何でも教えてくれました。」話しが熱してくると、来診患者の時間を気にしている矢崎医師をいつまでも帰さないほど多弁になったという。>と。


 三郎先生のもとには、敗戦間もない昭和20年8月27日に、進駐軍の将校がジープで東京から乗り付け、アメリカ人軍医に日本住血吸虫病の治療方法の伝授を要請し、以後一年近く入れ替わりで一人の軍医が10日前後、医院二階に滞在して研修を受け、フィリッピンに戻り治療にあたったそうですから、県内の若手医師にも同じように地方病の治療方法を熱く伝授していた三郎先生の姿が彷彿します。    

三郎先生は、「国境なき医師団」の先駆者であったことは、帰国したアメリカの軍医から山のように届いている礼状や質問などのエアメールが静かに物語っています。