2013年10月3日木曜日

 杉浦醫院四方山話―278 『医業・医者ー4』

  有吉佐和子の原作を大映の黄金期を築いた甲府市出身の映画監督・増村保造が描いた「華岡青洲の妻」は、江戸時代の和歌山県に実在した医者・華岡青洲の「家」をモデルにした作品でした。
 
  日本映画の絶頂期でもあった1960年前後は、今思い返しても素晴らしい作品が多く、映画が輝いていた時代でした。特に若尾文子の妖しげな魅力を開花させた増村保造監督の作品は楽しみでした。「妻は告白する」とか「夫が見た」「清作の妻」や「卍」「刺青」など胸躍らせて見入ったのを懐かしく思い出します。甲府市では、以前、黒沢監督の脚本で著名な甲府市出身の菊島隆三展など開催した記憶がありますが、増村保造作品の連続上映会などで、鬼才・増村保造をもっともっと周知、顕彰すべきと思うのですが・・・
  
 余談はさておき、華岡青洲の家は、当時としては最先端の医院仕様だったことが、発掘調査で分かったそうです。
江戸時代の外科医として、世界で 初めて全身麻酔を使っての乳癌手術を成功させたと云う青洲の嫁姑問題に麻酔の人体実験を絡めた作品でしたから、普通の家のでは不可能で、手術室やそれに伴う排水路なども整備されていた本格的な医院の家だったそうです。往診が主だった江戸時代の医者の家は、普通の家と変わらないのが一般的だった中で、青洲の家は突出していたようです。
 

 明治中頃に造られた杉浦醫院母屋も国の登録文化財指定を申請した際、調査に来た文化庁の調査官も「明治期に真ん中に廊下と階段を配して、南北に部屋を分けたこの造りは大変珍しく貴重です」と指摘するほど代々医業を営んできた特徴を色濃く残しています。
 
 この時代の日本家屋は「田の字型」の間取りが大部分でした。
この間取りは結婚や葬儀など人が集まることを前提に、用途に合わせてふすまを開け閉めしたり、取り払って使えるようにした日本の風土、習慣に合った合理的な間取りで、普遍性があったのでしょう昭和の時代まで続きました。
 
 昭和4年に現在の醫院棟を新築するまで、健造先生は、写真の廊下左手前の板戸の部屋で患者を診ていたそうです。この部屋は玄関から向かって右奥にあり、外からも直接入れるようになっていましたが、玄関を上がった座敷が、待合室にもなっていたそうですから、真ん中の廊下で、公私を分けていたようです。

 純子さんの現在の生活スペースも全て廊下右側の部屋にあり、左側の座敷はもっぱら応接用として使われています。健造先生も三郎先生も私的な生活は、廊下右側を生活スペースとしてきましたから、明治中期に母屋新築の際、これまでの経験から、医者を開業していく上で、この廊下は必要だったのでしょう。