2012年12月1日土曜日

杉浦醫院四方山話―201 『清韻亭茶会』

 11月25日(日)に杉浦家母屋清韻亭と病院棟二階和室の二か所に釜を設け、茶道正傳有楽流山梨県支部の秋の茶会が開催されました。県内各地から着物姿の有楽流社中の方々が、紅葉真っ盛りの庭園を望みながら座敷で、お手前を流儀に則って愉しみました。
 不調法な私も二席を廻りレクチャーを受けましたが、洗練された手順や形式に存在する美しさを目の当たりにして、「様式美」とか「型」と云うことについて再考してみる必要を痛感しました。
有楽流茶道の定まった形式=「型」を身につけることで、日常生活の何気ない動作や口調にも品格のあるふるまいが可能になるのではないか?
蓮っ葉な娘が急増している現代にあって、日本文化の根底にはある「型」の思想は、やはり捨てがたく継承すべき文化であるように感じました。

 また、午前10時から午後3時までの本格的な茶会を観察して感じたのは、参加者には、共通して時間の流れをゆったり楽しむ知恵があることでした。茶席の合間には庭に出て紅葉を愉しみ、樹木を見上げ、石碑を読んだりと、思い思いにゆっくり過ごして、次の席でまた茶を楽しんでいました。茶道の究極は、「落ち着いた心でお茶を楽しむ」ことでしょうから、あくせくした時間からは落ち着いた心も生まれないと云う事でしょう。
 そう云えば、お昼にご馳走になったお弁当が洒落ていたので「これは特注でしょうね。どちらから?」と聞くと「杉浦先生が粋さんに頼んだようです」と・・・「私はお部屋を貸すだけで何も出来ませんから」と云っていた純子さんですが、お釜や屏風から茶碗まで純子さんのお道具が光っていましたし、やはりお弁当の手配までも・・・身に付いた振る舞いなのでしょう。
 勘や動きが鈍く、人の気持ちをうまく読み取れない私のような人間を「野暮」と云い、反対に、気が利いて、活き活きと意気が感じられる純子さんのような人を「粋」と云うのでしょう。今回、茶道は、何だか人間のありようにまで影響する奥の深いものなんだなあ・・と云った程度のことは野暮な私でも分かりましたが、努力もせず、「少しでも粋な人間になってみたいなあ」と思った助平根性も野暮の典型なのでしょうね。