2020年3月25日水曜日

杉浦醫院四方山話―610『610・むじゅう・無常』

 これまで杉浦醫院四方山話と題して勝手を書いてきましたが、10年を区切りに3月末に退職することから、当ブログも今回の610話で最終とさせていただきます。

 

 何を基準に休館・開館が降りてくるのか正直不満な新型コロナウイルス騒動により休館が続き、やっと3月30日(月)からの開館も決まりましたが、団塊の世代として生まれた育った私は、多くの同世代に紛れて学校や仕事も終えてきましたから、ウイルス騒動に紛れて去るのも何とも心地よく、ふさわしい感じもしてきます。


 思えば世の中の事象は全て紛れて消え去っていくようにも思います。

今回の新型コロナウイルスについても真偽は定かでないにもかかわらず、中国武漢にある細菌兵器研究所からの流出説やアメリカCIAが米軍が開発した生物兵器を武漢でまいたなどの諸説が飛び交っていますが、騒動が収まれば発生の真相も有耶無耶に消えていくのでしょう。


 約800年前、京の都に打ち続いた火災や竜巻、地震による飢餓など大きな天変地異を体験した鴨長明は、晩年、京の外れに建てた一丈四方=方丈の小さな庵で隠棲し、世の中を観察しながら書き記した記録を自ら「方丈記」と命名して残しました。

 

 いくら科学が進歩して人類の生活様式や価値観が変わったとしても「方丈記」で長明が結んだ『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。』のこの思いは永遠ではないでしょうか。


 長明のこの思いを後世の者は、日本人の無常感を表した作品と評し定着してきましたが、 無常感とは、世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという想いですから長明も異存はないでしょう。


 10年間、杉浦醫院庭園から母屋や醫院棟を仰ぎ見るにつけ感じたのがこの無常感でした。

江戸時代初期の初代・覚東氏から9代・三郎氏まで代々医者、地主としてこの地で確たる業績と歴史を刻んでき杉浦家ですが、数百年と云う長いスパンでは「 淀みに浮かぶうたかた」で「かつ消え」を免れ得なかったと云う「無常感」です。

また、十年と云う短いスパンでも当ブログ公開の切っ掛けにもなった純子さんの明晰な話は徐々に消え、老いは確実に意識と食欲の低下を招き、ここに来て病床での日々へと変わりました。同じように客観的には私自身も衰えている訳ですから、今回の退職も遅きに失した感もあります。 それは、人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った「万葉集」や無常の遁世生活を綴った「方丈記」、諸行無常で始まる「平家物語」から「能」に至るまで、日本文化は無常感漬けの感もありますから、日本人である以上自然な感情でしょう。


 しかし、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」でありますから、杉浦醫院は昭和町の郷土資料館として「かつ結んだ」のだから、しっかり管理・運営していかなければと思い直すのも常でした。


 まあ、浅学が往生際も悪く御託を並べても面白くもありませんが、日本人の感情としての「無常感」と苦を脱却するための「無常観」の違いは、曖昧な日本仏教とインドの仏教との違いでもあるようですから、何もかも「難しい問題だ」と紛れ去るのではなく、無常「感」と「観」の違い位は自分の中でしっかり整理していきたいと思います。


 長い間、当館にご協力いただいた方々、当ブログをご愛読いただいた方々やブログを読んで来館いただいたと云う方々にこの場を借りて御礼申し上げます。

「このブログは全編中野ワールドだから私としては違う形で・・」と秘めた新企画を構想する情熱を持った新館長に引き継ぎますので、4月以降の当館、当ホームページにこれまで以上にご期待くださいますようお願い申し上げます。重ね重ね有難うございました。

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     中野館長、10年間お疲れさまでした。拝謝申し上げます。(若)

2020年3月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―609『新型コロナウイルスと地方病』

 

 以下、最新の本日付け記事を転載させていただきたくご高配をお願いすると共に情報を寄せていただいたN・H氏にお礼申し上げます。


3月5日 住血吸虫の感染実験(2月17日 Nature Medicine オンライン掲載論文)

2020年3月5日

新型コロナウイルスがこれほどの騒ぎになるのは、今のところ治療や予防の手段がないためだ。しかし、近代細菌学以降の感染症に対する戦いを見ると、やはり基本は相手を知った上での、疫学、公衆衛生学的手段による押さえ込みと、ワクチンしかなかった。もちろんコロナも様々な治療薬がすぐに開発されてくると思うが、多くの感染症との戦いの歴史を見ると、治療薬の有無に関わらず流行を抑え切ることは難しい。

 

例えば我が国で風土病と言われた日本住血吸虫は、原因寄生虫の発見、中間宿主の発見、そしてライフサイクルの特定と長い研究の歴史の末、1980年以降、患者さんの発生がなくなった。撲滅できた原因を探ると、治水の変化により、結局、宮入貝のような淡水の貝が私たちの周りから消えたことが一番大きいだろう。実際、昨年旅行したウガンダを始めアフリカ諸国では、薬剤も開発されているが、大自然が残るが故に、感染者の数は減らない。

 

今日紹介するオランダ ライデン大学からの論文は、この住血吸虫についての研究で、なんと人間に感染させ病気を発症させるモデルについての研究だ。タイトルは「A controlled human Schistosoma mansoni infection model to advance novel drugs, vaccines and diagnostics (新薬やワクチン開発のためのコントロールされた住血吸虫感染モデル)」で、2月17日号のNature Medicineに掲載された。

 

この論文を理解するためには、住血吸虫のライフサイクルを知る必要があるが、人間に感染するのは淡水の貝の体内で卵から成熟したセルカリアで、これが皮膚から感染すると血中を通って肝臓に移行、そこでオス、メスが接合して卵を産み、これが便を通して宮入貝に感染する。

 

寄生虫の中には雌雄同体のものもあるが、住血吸虫はオス、メスが完全に分かれており、従ってオスのセルカリアを感染させても、卵を産むことはないので、次の感染を起こすことはない。ただ、感染すると当然病気が起こるはずだ。

 

この研究では、オスのセルカリアだけを皮膚から感染させて、病気が起こるかどうかを調べている。ある意味では極めて非人道的な実験で、病気が起こることは完全に予想される。ただ、2次感染がないこと、そしてPraziquantelで成虫を退治できるということを信じるボランティアを全体で38人も募って、感染実験を行なっている。

 

これにより、皮膚に30分セルカリアを晒した時の感染率、その後の皮膚炎症症状の発生、そして血中から肝臓へ移行し成熟した時の分子マーカーによる診断、それに合わせて起こる片山症候群と呼ばれる特徴的な症状の発生、そしてその原因がインターフェロンをはじめとする炎症性のサイトカインの分泌を反映していることなどを明らかにしている。じっさい、10匹のセルカリアでしっかり病気が起こるのを見ると驚く。

 

そして、ほとんどのボランティアで、最初はIgMクラス,のちにIgG1クラスの抗体が産生され、これがTh2型のT細胞反応で、抑制性T細胞の誘導は少ないことなどを示している。

 

最後に、Praziquantelを投与し、全員めでたく治癒しているが、必要な量が普通推奨されるより少し多めであることも示している。

 

話はこれだけで、石井部隊やナチスのような実験が、オランダで、その意味をよく理解したボランティアによって支えられていることに最も関心した。

 


2020年3月1日日曜日

杉浦醫院四方山話―608『休校・休館ー子ども・学校の誕生ー』

 新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、政府が全国一斉の休校を要請した結果、山梨県でも昭和町でも3日午後から学校や社会教育施設の臨時休校、臨時休館が決定しました。

よって、当館も3月3日(火)から15日(日)まで閉館し、16日(月)からの開館予定となりましたが、感染状況により更に変更も予想されますので、来館予定の方は事前に当H・Pをチェックの上お越しくださいますようお願いいたします。


 今回の政府と云うより安倍総理の政治決断による「全国一斉、休校・休館要請」報道を耳にして、真っ先に頭に浮かんだのは「アベノミクスを旗印に経済成長を売りにしてきた総理だが、本当に経済が分かっているのだろうか?」と云う素朴な疑問でした。


 それはもう30年以上前、貪るように読んだ歴史学者フィッリプ・アリエスや哲学者イヴァン・イリイチの指摘が蘇ったからでした。

二人が共通して提起した内容を極々大雑把に浅学がまとめると以下のようになります。


≪現代社会では、当たり前のようになっている子どもと大人の線引きや学校教育制度だが、その歴史は浅く、中世ヨーロッパでも子どもと云う概念や学校と云う概念は全く無く、言語を取得する7歳位になると男は徒弟修業に出され、家内制手工業の労働力となり、女は家事を担い、恋愛も飲酒も自由で大人と同じに扱われていた。それ以前の5,6歳までは、一頭の動物と同じ扱いだったので、乳幼児の死亡率は考えられない程高かった。

 18世紀から19世紀にかけてのいわゆる「産業革命」は、工場制機械工業を成立させ、蒸気機関による蒸気船や鉄道と云った「交通革命」も起こし、驚くほどの経済成長を生み資本主義経済を一気に進めた。この産業革命に付随して起こった市民革命で、それまで労働力でもあった低年齢の大人は必要がなくなり、逆に大人の労働の足かせとなり「低年齢の大人」を「子ども」として区別し「子どもが誕生」したと説いたのがアリエスです。男児の半ズボンや子供服など現代では当たり前の物も「子どもの誕生」と共に出現した。

 大人の効率的な労働時間を保証する為に、その時間、子どもを保護しておく必要からも誕生したのが公教育であり学校で、だから校舎はまとめて閉じ込めて置く必要から、刑務所と同じ構造になっているとイリイチは指摘し、学校・交通・病院が近代産業社会がもたらした象徴的存在だとして、その弊害や行き過ぎにも言及した社会評論はラジカルでした。≫


 興味のある方は「フィッリプ・アリエス」「イヴァン・イリイチ」を検索していただくとして、安倍総理の政治決断は、もう翌日「保護者休職に新助成金」を出すので「一斉休校に理解を」となりました。

本年度予算の予備費2700億円からの支出とのことですが、一斉休校は保護者の休職を余儀なくさせ、所得にマイナスが出ると云った直接的な影響どころか、近代産業社会が推し進めてきた根本制度にストップをかける訳ですから、子どもを家庭に閉じ込めて保護者がその期間手立てをとるようにと云う突然の政治決断が日本経済にどれほどのダメージとなって、それをどう修復していけるのか?と云った大問題についての議論はなかったようですから、ホント大丈夫なのか?が、浅学の素朴な疑問です。

 

 まあ、この長期間、私事がらみの難題も見事?に乗り越えて来た安倍晋三センセイですが、ウイルスには忖度などと云った気の利いた知恵はないでしょうから、ここは一番「気合いだ!気合いだ!」と気合を入れ直して、本気のかじ取りを期待するしかないのですが・・・

2020年2月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―607『お忘れ物・雑感』

 当館のように不特定多数の来館者を前提とした施設では、来館者が持参した物を忘れることがあります。その「お忘れ物」に付随した物語もあったりして面白いのですが、中には「何処で忘れたのか?落としたのか?」と、お困りの方もいることと思います。

 近々では、県外から1人で来館くださったあの男性では?と予想は付きますが、来館時に住所・氏名まで伺う事はありませんから、こちらから連絡することは出来ない忘れ物もあります。

2階に置き忘れてあった直近の忘れ物「キャノンの交換レンズ」です。
 

 当館では、人数に関係なく来館者の希望で山梨県の地方病と杉浦父子についてガイド付き案内をしています。その方も「せっかくですからガイド付きでお願いします」と云う事で、約1時間案内しながら話しました。予備知識も豊富で本格的なカメラも持参していましたので「この後は、2階で映像もご自由にご覧いただけますし、写真撮影もどうぞ」と自由見学に切り替えました。


 自由見学時に共通するのは時折「カシャ・カシャ」とシャッター音が聞こえてくる位で、皆さん足音も立てず「静かにじっくり」ご覧いただいていることでしょうか。

 

 これは性格にもよるのでしょう、事務室に居る私たちに声掛けして帰る方、玄関のピンポンでお帰りが分かる方、報知器の反応を回避するように帰ったのか、全く知らない間にお帰りになる方と・・・来館者も様々ですが、中には後日、案内の感想や撮影した写真を個人的にブログやyouーtubeにアップして発信してくださる方も居て、それを観て来館したと云う方もいますのでありがたい方々でもあります。


 そんな訳で、来館者の忘れ物、落とし物を当館で保管していますので、お心当たりのある方は☎055-275-1400(杉浦醫院)まで連絡下さい。


 余談ですが、以前、西条小学校の児童が団体で見学に来た折、庭園内に小さなエンピツが一本落ちていたことがありました。エンピツには記名もされていましたから、近く学校に行く用事があったので持って行こうと話していました。

その日の夕方、お母さんと児童が来て「今日見学に来た西条小学校の2年生ですが、鉛筆を落としたので探していいですか?」と云うので「〇〇さん?」「そうです」「名前が書いてあったから今度学校に届けようと思って、預かってるよ」と話すとうれしそうにホッとしました。

 お母さんの話で、この子の家庭では子どもの文房具はエンピツ一本までしっかり把握して、使い切ったら新しくしているそうで、一本でも紛失したらすぐ分かるので、学校に無ければ今日行ったところを探すようにしているとのことでした。

 

 正直、私は驚き恥じました。それは我が身、我が家との対比を余儀なくされたからですが、学校をスタートして地域探検で回った幾つかの見学場所を親子で探し歩き、最後に当館に来たと云う徹底した姿勢に「家庭教育」の原点や大切さを今さらながら教えられたことに対してでした。


 忘れたり落としたりは誰にでもあることですから、それを前提に大人になっても所持品には必ず記名している人がいます。これは私のだらしなさと同様に習慣的に身に付いているからでしょう。

親の所為にするのも恥ずかしことですが、「確かに両親共その辺も手抜きだったなー」と思うと同時に「マァほどほどで助かったかなー」と云うのも実感でしたから、当館見学後見当たらなくなったモノがある方は、遠慮なくお問い合わせください。

2020年2月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―606『京都大徳寺15代管長・高田明浦氏』

  後醍醐天皇や花園上皇から戦国武将まで多くの帰依を集めたことでも有名な京都紫野・大徳寺は京都五山に連なる名刹として今なおその光輝を放っています。

大燈国師を開山と仰ぐこの寺は、茶の湯や庭園など中世日本の美と粋が凝縮されている空間として、知る人ぞ知る中世文化の殿堂でもあります。



  後醍醐天皇の保護下では京都五山の上位に位置付けられていた大徳寺ですが、足利政権になると後醍醐天皇と関係の深かったが故に五山から外され十刹の最下位近くに落とされました。

その為、大徳寺は足利政権の庇護と統制下にあって世俗化した五山十刹から離れ、座禅修行に専心する独自の道を歩み始めました。こうして五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的寺院を「林下」(りんか)と呼び分けるようになったそうです。


 このように歴史ある大徳寺には、国宝の「方丈」「唐門」「絹本墨画淡彩観音猿鶴図」を始め、重要文化財の「勅使門」「山門」「仏殿」「法堂」「木造大燈国師坐像」や史跡・特別名勝に指定されている「方丈庭園」など国の文化財が多数あることでも有名です。


 その大徳寺の15代管長が、1943年(昭和18年)に山梨県昭和町築地新居で生まれた高田明浦氏です。高田氏の生家は、現在も築地新居615番地にある明亀山香積寺です。

県内の名刹としては、武田信玄の菩提寺である塩山の恵林寺や向岳寺が浮かびますが、全て信玄ゆかりの臨済宗です。高田氏の生家・香積寺も臨済宗の寺院ですが、武田三代の間に臨済宗から日蓮宗に宗派替えする寺院もありましたから、昭和町内の臨済宗の寺は、香積寺1か寺だけです。


表千家不審菴:髙田明浦猊下   高田明浦氏は現在の押原小学校に通い、13歳の中学進学時に上京し、東京・廣徳寺の福富以清和尚に就いて得度、大徳寺派13代管長の中村祖順老師の法を嗣ぎ、1984年に龍翔寺住職となり、大徳僧堂師家に就任後、2004年に大徳寺派第15代管長に就任したというのが略歴です。

 

 高僧になると俗名と別に「道号」とか「法諱」「室号」と云った名前が付きますが、ちなみに高田明浦氏は、俗姓「高田」、道号「明浦」、法諱は「宗哲」、室号「嶺雲室」です。


  室号「嶺雲室」で検索すると高田明浦氏の作品である書や茶道具などが多数出てきますから、書家であり作家であることが分かります。

俗な話、「書」は書道の大家よりも高僧の手による書の方が値段も価値もあると云った話を聞いたことがありますから、高僧=書家となるのでしょう。ですから、「室号」とはその作品を生み出す室の名と云う事かも知れません。


 高田明浦氏は、故郷・山梨の恵林寺など末寺の祭事にも来ているそうですし、昭和町の生家・明亀山香積寺の本堂建て替えに際しては多大な寄付金を寄せているそうです。

昭和町出身者と云った括りで、紹介されたり語られるのはご迷惑かも知れませんが、日本を代表する寺院のトップに同郷の方が居ることは、町民、県民にはうれしいことですから、承諾なしに勝手を書かせていただきました。

2020年1月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―605『麻布大学サクラサイエンス』

 今年で6回目となる「麻布大学・サクラサイエンス」の一行31名の皆様が24日に来館されました。



今年は、アジア21カ国の獣医師や大学教授などの研究者が1月20日から29日まで麻布大学で「検出漏れしないランプ法による鳥インフルエンザとBVDの検出」とか「犬を用いた鍼灸治療法の実践」「放射線防護実験」等々最先端の獣医学を学び、この日は忍野八海等で富士山を愛でた後「日本住血吸虫症」について杉浦醫院で学習すると云うプログラムでした。


 リーダーの黄教授とサブの平教授とも6回目と云う事もあり「今年は日本での終息活動の具体的な取り組みに絞って話します」と限られた時間での有効活用を提案しました。

黄教授が私の説明を単に通訳するだけでなく、参加者の各国での現状や歴史について質問して参加者が答え、共通理解を図ってくれますから「日本住血吸虫症はバングラディッシュでは既にヒトの患者はゼロだが動物には残っている」等々、私たちにとっても貴重な学習機会となるのが、このプロジェクトの特徴です。

 中には日本住血吸虫症の大家もいて、終了後自分のスマホに残っている貴重な画像を次々見せてくれました。特に解剖時の最新の画像には住血吸虫もしっかり写っていてコピーを欲しくなりましたが、追って黄教授におねだりすれば・・・とも思い遠慮しました。

 

 前日の23日に平教授から最終確認の電話がありましたから「明日は天気が心配ですね。富士山も見えないかもしれないので忍野に行くなら、雨だったら森の水族館が良いと思います。2月3日からの公開となっていますが、生きたミヤイリガイとカワニナの飼育展示が始まります。もう準備は出来ているはずですから、杉浦醫院から紹介されたと話せばOKだと思います」と伝えました。


 到着するなり平教授から「水族館にも行ってきました。情報をもらって助かりました」と礼を言われ、黄教授は「水族館の方にはミヤイリガイの餌について自分たちの経験を伝え、感謝されました。これを機に水族館とも連絡を取り合っていくことになりました」と双方にメリットのあった旨の報告も受けました。


 麻布大学が夏休みや冬休みにサクラ・サイエンスと銘打ってアジアの獣医学者に研究機会を設けていることはあまり知られていませんが、毎年新たなメンバーが定員いっぱい参加していますから参加者には魅力ある内容となっているのでしょう。

約10日間、大学周辺のホテルに宿をとり、午前9時から夜7時、8時までぎっしり詰まったカリキュラムで学んで中日に当館の見学会が組まれていますから、前半が終了し後半に向かう節目のリラクゼーション的意味もあるのでしょう。

参加者は、帰りを惜しむように庭園内で写真を撮りあって思い出づくりもしていましたが、杉浦醫院が少しでもお役に立てれば光栄なことだと思います。

 

「私は定年退職になりますから来年からは平先生が仕切ります」と黄教授は宣言して帰途に就きました。「継続は力」を実感できた毎年の訪問とこのプロジェクトを定着させた黄教授の労に感謝しつつのお見送りは自然に頭も低く垂れました。 

2020年1月20日月曜日

杉浦醫院四方山話―604『忍野の森の水族館・新企画』

 山梨県忍野村にある「森の水族館」は、「山梨県立富士湧水の里水族館」の愛称ですが、忍野八海でも有名な透明度の高い富士の湧水で淡水魚を専門に展示している特徴ある水族館です。

 現在、この水族館は、株式会社・桔梗屋が指定管理者となって管理・運営をしていますが、若い職員は大変意欲的で「地方病の中間宿主として悪名高いミヤイリガイの展示を考えています」と当館にも何度か足を運んで準備をしていました。

 

 当館でも独協医大の研究室の皆さんが定期的に韮崎市にミヤイリガイの採集に来ていましたから一緒にミヤイリガイを採集して、水槽で飼育を試みたことはありました。

大学では湿ったガーゼに包むようにして飼育しているそうですが、見学者に棲息環境も分かるよう水槽に斜面状に土を入れ、そこに雑草も移植し底部に水を張って飼育しましたが、永く生かすことはできず諦めた経緯なども話し「是非、水族館のノウハウでミヤイリガイが常時観れるよう展示を実現させてください」と期待しお願いしてきました。


 約4カ月後の先日「やっと一月からミヤイリガイの展示を始める段になりました」と連絡が入り、二人の職員が展示説明文の相談にみえました。ミヤイリガイを展示する水槽を囲むように地方病の説明やミヤイリガイの生態などを分かりやすく説明した文案もそのままでも十分でしたが、有病地一帯のホタルが消えたのはミヤイリガイ殺貝活動の結果でもあることを入れて欲しい旨お願いしました。

 

 既に、森の水族館ホームページ上には、ミヤイリガイ展示開始の予告も載っていますので楽しみです。

http://www.morinonakano-suizokukan.com/

 

 これで、山梨県内には地方病関連の展示資料館が当館と県立博物館に加え森の水族館の三館になります。来年度の小学校4年生の社会科教科書にも地方病が取り上げられていますから、子ども達も多く訪れる森の水族館に当館パンフも置いてもらい相互に周知を図っていくことになりました。

 

 生きたミヤイリガイを目の当たりに出来るのは、世界中でもおそらく森の水族館だけだと思います。今月下旬からの展示だそうですから、事前に問い合わせて行くのがベストかと思います。