2019年12月26日木曜日

杉浦醫院四方山話―601『加茂悦爾先生』

 過日、広島大学の松嶋准教授と藤沢市にある三吉クリニックの広瀬先生が巨摩共立病院の加茂名誉医院長の話を聴きに再来館されました。

 お二人は「日本社会臨床学会」の学会員で、日本の臨床医療や医療人類史について研究しています。

先に紹介した松嶋氏の著書「プチコ・ナウティカ」は、イタリアの精神医学の先駆性を日本に紹介した本ですが、現在、日本の医学部学生の必読書に指定されているそうで、既に3刷を重ねています。その松嶋先生が、現在アプローチしているのが「日本住血吸虫症」で、実際に患者を診たり研究をしてきた臨床医の話を聴きたいと云う事で、加茂先生をご紹介した次第です。


 加茂悦爾先生は、88歳になりますが頭脳明晰、足腰壮健で姿勢よく車の運転もしているので話も速く、お二人の来館目的や指名の経緯等を話すと「それなら、横山先生も」とか「梶原さん、薬袋さんも適任では?」から「海岸寺もヒントになるのでは?」と云ったアドバイスもいただきましたが「今回は加茂先生の話に絞って・・・」と云うお二人の意向を伝えご協力いただきました。


 地方病を文化人類学的視点で研究しているのがお二人であることも事前に知らせましたから、加茂先生はそのための資料も持参くださいました。


 その一つは、産婦人科医でもあった功刀博氏が1975年(昭和50年)に「山梨生物」誌に発表した「山梨県の第三紀以降における地史的要素と植物群の変遷」と云う論文です。

 その論文の中に2200万年前、甲府盆地が海であったことを示す「グリンタフ変動の頃の海岸線」の図があり、中国と甲府盆地は海で繋がっていたことが示されています。

 お二人がフィールドワークに山梨や当館に足を運んでいる主目的は「なぜミヤイリガイが甲府盆地に集中したのか?」ですから、加茂先生は「それは分からん」としつつも「日本住血吸虫症が中国には古代からあったことから海を渡った船によって持ち込まれたのでは?」の論拠として、功刀氏の論文も持参されました。

 

  同時に後に広島大学医学部の教授になった加茂先生の同級生・辻守康氏が、甲府中学在学中「細菌二就イテ」と題した論文を昭和22年4月発行の自治会誌「希望」に寄せていて「あの頃から感染症の研究をしていたんだから広島大学でも有名な教授だったと思う」と、お二人の来館に合わせ必要となる資料を用意してくださいました。

 

 上記2誌は各40年と70年以上前に発刊された冊子ですから、私たちは先生の記憶力と整理・保管力に驚き感心してしまいましたが、何より本年の締めくくりに加茂先生の決して平穏とは言えない医師人生と苦難に遭遇した時々の誠実な対応とブレない姿勢についての話を聴けたことは、大変示唆に富み有意義な内容で驚異の若さの秘訣ともなっていることを実感できました。


 本年は、今回のお二人と並行して青山学院、独協医大の共同研究のメンバーが、それぞれのテーマで複数回来館いただき、私たちも知りたい「謎の解明」に当館資料を活用したり、当館を基点にフィールドワークを重ねたりと当館がアカデミックなジャンルからも光が当てられたように思います。

 

 引き続き、来春も麻布大学のさくらサイエンス一行様、北里大学寄生虫学教室の皆様等々、年度末まで当館への来館予定が続きますが、加茂先生始め山梨県内で地方病終息に関わった多くの方々が、それぞれの要望に合わせてご協力いただいてきたことが大きな要因となっています。

今年一年お世話になった皆々様にこの場をお借りし御礼申し上げ、合わせて、今後ともよろしくご指導ご鞭撻のほど申し上げます。

2019年12月8日日曜日

杉浦醫院四方山話―600『薬袋勝氏の証言収録』

 先日、青山学院大学飯島研究室と獨協医科大学千種研究室の先生方が来館され、二階座学スペースに薬袋勝氏を招き、インタビュー形式で薬袋先生の証言を聞く機会を設定してくださいました。

 

 青山学院の飯島渉教授は、「衛生と近代ーペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会ー」と云う著書を法政大学出版局から出しているように「医療社会史」が専門の歴史家です。「日本の医療史では、日本住血吸虫症終息史が住民も参加してですから最大規模で一番ですが、特に戦後の山梨県での取り組みとそれに大きく関与したGHQとの関係など未だ解明されていないことがたくさんあります」と云うことで、昨年から当館所有の資料の分析と保存を進めていただいてきました。

 

 獨協医大の千種教授は、現在の日本住血吸虫症の研究では第一人者で、桐木助教授と共にフィリピンはじめ今なおこの病に苦しむ患者の救済にも当たっていますが、山梨には毎年ミヤイリガイの採集に来て、当館にも学生を案内くださっています。医療史の飯島先生も地方病については大変ご造詣が深い訳ですが医師ではありませんから、千種教授とのコラボも必要なのでしょうし飯島教授の研究内容は千種教授にも有意義なことから共同で研究に当たられているようです。


 前回は、梶原徳昭氏の話を収録しましたが、今回は梶原氏の先輩でもあり一貫して県の地方病行政に携わってきた薬袋勝氏の証言を収録しました。薬袋氏は「山梨県立衛生研究所」の歴史的変遷をたどる中で、薬袋氏個人の感想も含め大変興味深い話を自嘲気味に話されたのが印象的でした。

 薬袋氏は、学生時代を送った昭和40年代前半の大学の研究室に馴染めず春休みや夏休みになると甲府に帰っては甲府の中心街にあった山梨県立衛生研究所の前身の研究室に通って職員と一緒に研究していたそうで、特に公務員を希望していた訳ではなかったけどそのままそこに就職したのがこの生活のスタートだったと語り出しました。


 確かに昭和40年代の大学も県庁も現在からするとまだまだのどかで同じような経緯から都教委に採用された私には時代の空気と云ったものが感じられ親近感が湧きました。同時に公務員と云った職業は基本的には余り人気のない職種として軽んじられている方が変なエリート意識で小役人根性だけと云った人間にならずいいのかなぁ~とも・・・・


 薬袋氏の話で特に興味深かったのは、戦後いち早くGHQの医薬補給部隊が杉浦醫院を訪ね、三郎先生との親密な交流を続けた経緯についての証言でした。

 GHQは、なぜ県の研究機関であり地方病対策にも当たっていた県立衛生研究所ではなく杉浦醫院と云う個人病院を通して甲府盆地でこの病気の研究を推進したかと云う謎が解けたからです。

 それは、アメリカで主流となった思潮・プラグマティズム(実用主義とか道具主義とも訳される) からすると面倒な手続きやハンコ行政の県の組織を通すより、地方病の権威でもあった杉浦三郎と云う個人医師を介しての方が手っ取り早くスムーズに事が運べたからだと思いますと云うのが薬袋氏の見解でした。


 純子さんも杉浦家とGHQ研究者との親密だった交流をよく話してくれましたし、杉浦家で和服を着せてもらったアメリカ人女性と杉浦ファミリーの記念写真や三郎先生宛ての英字書簡が数多く残っているのも薬袋氏の証言を裏付けています。

 また、昭和21年、GHQが寝台車・食堂車・研究車からなる3両編成の列車を甲府駅に常駐させて、ここを拠点に甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤の研究・実験を重ねPCPを開発したと云う、市民から「寄生虫列車」とも呼ばれていた研究車内の写真に唯一の日本人として三郎先生が写っているのもそんな関係からでしょう。


 後のベトナム戦争等で使われた枯葉剤と云う名の科学兵器の原料ともなったPCPを甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤として当時住民を動員して撒いた映像も残っていますから、飯島・千種両教授等の地道な研究の中で、GHQの果たした地方病終息の役割やより正確な評価も明らかになっていくことは、歴史学の醍醐味でもあると思えた薬袋氏へのインタビュー収録でした。 

2019年11月26日火曜日

杉浦醫院四方山話―599『第6回杉浦もみじ伝承の会』

 すっかり恒例となった「杉浦もみじ伝承の会」が昨日、これまでになく温暖の中開催されました。

この会は女性グループによる実行委員会が主宰して、杉浦醫院庭園のもみじがきれいに色づく時期に合わせ和をコンセプトにした約30店舗のフリーマーケットが出店し、紅葉を愛でながら来場者との交流を深めてきました。今年は6回目になりますから毎年訪れるリピーターが多いのも特徴です。


 今年新たな試みとして、庭園だけでなく病院棟2階の座学スペースで「茶席」を設けたいと地元の昭和町民から提案を受けました。庭園は公園扱いですから自由散策など無料開放していますので年一回のフリマにも協力してきましたが、館内での開催となると入館料も派生するなどクリアすべき課題も付随しました。


 買い物が主目的の来場者も午前・午後に開催していた「院内見学会」には毎年多くの参加者もありましたから、館内での「茶席」となると見学会もスムーズな開催は難しくなります。

そこで、お互いに知恵を出し合って試験的に今回、茶席と院内見学会をセットにして開催してみました。10時から1時間ごとに茶席を開催し、2,30分抹茶を愉しみ終了後は院内見学を約3、40分、案内に従って行うという形でやってみようと計画しました。


 そんな協議を経て具体化が決まると主宰者の皆さんは事前に数回、当館に来て準備作業を綿密に行い、座学スペースに水屋とお席が用意されそれなりの雰囲気も醸し、後はどの位の方々が二階まで足を運んでくれるか当日を待つのみとなりました。


 途中で「お茶はいいから見学だけしたい」と云う方や逆の方もいましたが「今日は茶席と見学はセットでお願いしています」で通しましたが、結果的には茶席も見学会も収穫が多かったと云う声が多くお互いが満足出来る内容になったように思います。


 昨日は大相撲九州場所も千秋楽で、郷土力士・竜電は敗け6勝9敗と3場所連続負け越しとなりました。また、バンフォーレ甲府もJ2最終節を地元甲府で琉球と対戦し2‐0で勝利しプレーオフ進出を決めるという明暗を分けた結果となりました。

かつての横綱が用いた「百折不撓(ひゃくせつふとう)」なる四字熟語は読みも意味もポピュラーではありませんが、同じように「失敗にもくじけず何度も挑戦することが大切で、その過程で成長したり進歩する」と云った意味では「失敗は成功の母」とか「試行錯誤」と云った言葉の方が身近なように思います。


 今回の「茶席+見学会」も試行錯誤でやってみましたが、思った以上の参加人数で充実した内容で終われましたから、所詮人間が作った「決まり」に逃げ込むのではなく、お互いの条件や希望を出し合って臨機応変に対応していくことが必要であることを実感しました。

それにつけても日本人はその辺の微妙なニュアンスをズバリ四文字で「臨機応変」「試行錯誤」「百折不撓」等々・・・本当に知恵深いなぁ~ 

2019年11月20日水曜日

杉浦醫院四方山話―598『山梨県立大学看護学部』

 先日、昭和町いきいき健康課で実習中の山梨県立大学看護学部の学生4名が午前中当館の見学に見えました。「杉浦醫院に行けば昭和町の歴史は全部分かるからと言われてきました」と来館理由も素直に告げるので「昭和町の歴史全部と云ったら時間無制限でいいのかな」ですが「午前中いっぱい大丈夫です」と云うので「じゃあ看護学を学んでいるなら地方病に絞って2時間やりましょう」と見学会をスタートしました。

 

 山梨県立大学は、どんな変遷をたどって現在どんな学部があるのか知りませんでしたので、この機会に整理してみました。

大学のH・Pによると池田キャンパスと飯田キャンパスがあるようで、池田キャンパスは、昭和28年に開校された山梨県立高等看護学院を母体として平成7年に山梨県立看護短期大学となり平成16年に山梨県立大学として文科省から認可され現在に至っているようです。

飯田キャンパスは、昭和41年に国文科・家政科・幼児教育科の3科編成で山梨県立女子短期大学として開校し、後に国際教養科を設置したり家政科を生活科学科と名称変更するなどして池田キャンパスの看護短期大学と合併し、平成16年に山梨県立大学になったようで、現在は、男女共学で国際政策学部・人間福祉学部・看護学部の3部構成のようです。 

 まあ、このように元々は別の学校を一つにまとめるとなるとそれぞれの教職員から同窓会までが「ウチが母体」の本家争いの綱引きが一般的で、かつセクト主義的にそれが永く尾を引くのも特徴でしょう。山梨県立大学のその辺に詳しい方がいましたら、是非話を聞かせてください。

 

 それは、山梨県立高等看護学院以来の卒業生が県庁から市町村の保健師として「鉄の結束」で見事なピラミット体制を構築し、その体制になじめない心優しき?方々は辞めって行った事例を観たり聞いたりしてきたからでもあります。今回の4人の学生も至って真面目で、皆さんクリップボードを用意し、私の話を一生懸命メモしているので思わず「午前中の研修報告として提出するよう言われてるの?」と聞いてしまいました。


 これも一般的な話ですが、見学会や講演会などでメモを取ると云う行為は熱心で良いことのようになっていますが、果たして本当でしょうか?話をしっかり聞いて「?」とか「なぜ?」と云った疑問点をメモすることは必要ですが一言一句メモしようなんて無意味ですし間違いでしょう。メモするための見学ではなく新たな発見や知らなかったことを知ることに心が動くこと(感動)に見学の意味や必要性があると私は思っているのですが・・・・


 現場実習は3年生の必須のようですが、3年間山梨県立大学の看護学部で学んできたはずですが、正直な4人は「地方病については何も知りません」「学校でもやってません」とのことで、全くの白紙状態でした。「そうか。横山先生が辞めてから地方病を教える先生が居なくなったのか」と話しましたが、2年制の高等看護学院・看護短期大学時代には山梨の風土病でもあった地方病を横山先生が教えていたのに4年制の大学になったら教えていないと云うのもおかしな話です。県庁OBの薬袋勝氏や梶原徳昭氏など有識者も揃っているのに・・・です。


 そんな訳ですが、彼女たちはみっちり2時間、しっかり学習して帰りましたが、純真無垢で向学心に溢れた(ように私には見えた)学生に大学はどんなカリキュラムを用意しているのか?今日の4人は昭和町に実習に来たので地方病も知りましたが、山梨県立大学として看護学部に限らず、地方病=日本住血吸虫症の病理や終息に至った歴史を学ぶ機会を是非お願いしたいと思った次第です。

2019年11月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―597『君が 笑えば 世界は 輝く』考

 前話で「童謡生誕100周年」について記しましたが、その余韻でしょうか?昨日聴いた嵐と云うグループが歌った「君が笑えば世界は輝く」をタイムリーに取り上げてみたいと思います。


 「君が笑えば世界は輝く」は、夜のニュースで聴いたというか観たのですが、昨日行われた「即位パレード」に合わせて皇居前広場でおこなわれた「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」と云うイベントの中で披露された歌です。Jーポップ調で今風の歌でしたが「?」と思ったので歌詞を調べてみました。

どういう方は存じ上げませんが、作詞者は、岡田恵和と云う方です。長い歌詞ですが「君が 笑えば 世界は 輝く」のテーマ部分をそのまま転載してみます。


「君が 笑えば 世界は 輝く」

君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
 
はじめはどこかの 岩かげにしたたり 落ちたひとしずくの 水が平野を流れ
やがて研ぎ澄まされ 君をうるおし 鳥たちをはぐくみ 花たちとたわむれ
あの大河だって はじめはひとしずく 僕らの幸せも 大河にすればいい

大丈夫 水は 流れている 大丈夫 海は 光っている
大丈夫 君と 笑ってゆく 大丈夫 君と 歩いてゆこう

 なんと云う事でしょう!これでは全く「君が代」の現代版ではないでしょうか?Jーポップなるジャンルは、1990年代にこれまでの「歌謡曲」や「ニュー-ミュージック」とは趣が違う日本の若者が生み出した若者向けのポピュラー音楽だとばかり思っていましたが・・・・

君主の永続性を願い賛歌する「君が代」の「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の「さざれ石」を「ひとしずくの水」に「巌」を「大河」に「苔」を「海」にすり替えただけで、「君が 笑えば 世界は 輝く」「大丈夫 君と歩いてゆこう」の「君」は「天皇」ではなく「身の回りの愛する人だ」と、姑息な逃げ道まで透けて見えます。

 

 いや待てよ、ひょっとして「君が代」の無理な解釈が姑息であって、この詩の「君」は「天皇陛下です」としっかり指し示しているのではないでしょうか。だって「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」での「奉祝曲」ですから・・・・


 まあ、若者に人気の芸能人まで動員して、飽きさせない工夫やソフト化されたショーアップで、世界に唯一無二の皇室・天皇をいただく伝統国・日本と云った物語をいかにして国民に浸透させていくかが民主主義国・日本でも権力維持には必要だと云うことでしょう。

 

 主催者もあいまいな「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」をNHKが中継したようですが「国民祭典」と銘打たれるとこれを観ない者或は「ちょっとなア~」と違和感を抱く者は「非国民」であるかのようです。人気アイドルグループの「歌って踊って」で、その辺の狙いもぼかし、その新曲も「天皇あっての国民であり国家です」を織り交ぜた復古調の歌詞で・・・そんな嵐の熱演に「雅子妃も感激で涙した」との報道まで・・・「感激の涙」って誰が決めたの?だって「君が 笑えば 世界は 輝く」と常に「笑み」を強いられるお二人は私にはお気の毒で、無理言うな!です。その上「大丈夫」「大丈夫」のリフレイン・・・う~ん、これって失敬じゃないの?って。



 

 天皇即位にかんするお祝いイベントをテレビを始めとするマスコミがこぞって報道するのは、為政者にとって計り知れない政治的効果があるからでしょう。それが証拠に街の声として「パレードを観て日本人に生まれて本当によかった」とか「おめでたいことに立ち会えて幸せ」と善男・善女が口を揃えています。

 

 今は昔の昭和12年、盧溝橋事件から泥沼の日中戦争への時代、詩人・金子光晴は植民地支配や戦争に狂喜する日本人に愛想を尽かし、詩人として最後の鬱憤と社会批評を詩に叩き込みました。詩集「鮫」におさめられた「おっとせい」です。日本ファシズムの感性と国家による個人への干渉を、豊潤かつ痛烈に解剖し、憂いたオットセイ国・日本の閉塞感は、元号が2度変わった現代ても・・むしろなりふり構わずかつ巧妙に・・・の感もしてきましたが「アンタは詩人でもないのだから身の丈に合ったことを感じなさい」と文科大臣センセイに叱られそうです。 

2019年10月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―596『童謡・わらべ歌・唱歌』



 杉浦醫院院内コンサートは昨年、ピアニストの佐藤恵美さんから「今年は童謡誕生100周年の記念の年だから、友人の童謡歌手・塩野さんとの童謡コンサートは如何でしょう」と提案をいただき、それならば地域の西条小学校の児童にも聴かせたいと小学校での「出張コンサート」を開催しました。

 西条小学校コミュニティースクールの一環として保護者や地域の方々も参加し、皆さんからご好評をいただく中で「町内全ての学校で子どもたちに聴かせたい」となり、今年は11月1日(金)11時から押原小学校での開催となりました。


 杉浦家から寄贈された昭和八年の皇太子生誕を記念して日本楽器が日本で百台受注製造した文化財的ピアノを活用して始めたコンサートでしたが、薬香も残る院内で、庭園の木立を抜けた風に吹かれながらのコンサートはファンも多く「今年の院内コンサートは?」との問い合わせもありますが、どう工夫しても定員40名が限界でしたので、童謡と云うこともあり試験的に学校を会場に開催したところ費用対効果と云った行政面からの評価もあり、出張コンサートが継続開催となりました。

そんな訳ですから院内コンサートを心待ちにしていた皆様も保護者や地域にも開かれたコンサートですから押原小学校の多目的ホールにお越しいただきお楽しみくださいますようご案内いたします。 

「押原小学校」の画像検索結果
押小多目的ホールは、ご覧のようにステージのある正面は「押原の杜」の自然を借景に取り込んだ会場ですから、杉浦醫院院内コンサートにも通じる雰囲気も味わえます。

 さて、「童謡」は子ども向けの歌を指すのでしょうから「わらべ歌」や「文部省唱歌」も童謡に入るのでしょうか?なぜ「童謡」「わらべ歌」「唱歌」と云ったジャンル分けがあるのか?前からちょっと気になっていましたので、フリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみました。

 

 前述のように昨年が「童謡生誕100周年」だったそうですから、日本で大正時代以降、子どもに歌われることを目的に作られた創作歌曲を正確には童謡と云っているそうで、もっと厳密には創作童謡と呼ぶのが正しいそうです。

 ですから、学校教育用に創作された「唱歌」は、文部省が歌詞に徳育を盛り込んだり情操教育にと日本の風景を賛美するなど教育的配慮が施された子どもの歌とも云え、童謡には含まれないそうです。そう言えば、文部省唱歌 「日の丸の旗」 など「白地に赤く日の丸染めて、 ああ美しや、日本 の旗 は」とすっかり擦り込まれていますからねえ・・

 また、「わらべ歌」は作詞・作曲者も不明な自然発生的に生まれた歌を総称するようで、自然童謡とか伝承童謡と呼ばれることはあっも童謡には含まれないそうです。確かに「本当は怖いわらべ歌」と云った考証もありますから、ある意味手あかのついた子どもの歌を外す意味もあったのでしょうか?



 要するに大正時代に子どもに芸術的香気の高い歌謡を創作して与えていこうという新しい運動が起こったということで、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に児童雑誌「赤い鳥」を創刊したことと軌を一にしています。鈴木は「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と命名し、これまであった「わらべ歌」や「唱歌」と一線を画したということのようです。



 まあ、こう言ったジャンル分けには大した意味もないように思いますし、これらの概念も時代と共に変わっていくのが世の常でしょうから、「童謡=子どもの歌」として唱歌、わらべ歌に限らずアニメの主題歌なども含め、子どもが喜んで歌う歌は全て「童謡」で言いように思いますが、鈴木三重吉センセイが崇高な精神で追求した世界にそれでは失礼、いい加減過ぎると云うものでしょうか? 

2019年10月22日火曜日

杉浦醫院四方山話―595『山梨県古民家再生協会』

 昨日、山梨県古民家再生協会の方々11名に来館いただきました。

当館は、地方病=日本住血吸虫症の解明から終息までの歴史と杉浦健造・三郎父子の功績を伝え、併せて水の街・昭和を発信していく郷土資料館ですが、敷地内には明治25年築の母屋をはじめ昭和4年築の醫院棟まで5棟の建造物が国の登録有形文化財にも指定されています。

 そんな関係から、今回の古民家再生協会のメンバーに代表される建造物の見学が目的の来館もあります。


 9時30分に集合されたメンバーは、「建物と地方病、両方の案内をお願いします。時間も午前中いっぱい大丈夫です」と皆さん大変意欲的で、母屋の屋根を指さし「あんな大きな棟(むね)はちょっとないよ」「今の瓦はひっかけて留めるんだけどあの瓦は粘土の上に敷き詰めていく構造だから吹き替えも大変だよ」と参加者同士でも感想や専門的な話が飛び交っていました。


 

全国には、未だ杉浦醫院同様の日本の住文化である「古民家」が多数残っていますが、高度経済成長時代を機に住居もスクラップアンドビルドで建てては壊すとことが当たり前になり、古民家は、寒い・暗い・不便に加え「金食い虫」とも呼ばれ敬遠されてきました。

 

 しかし、日本人は 柱や梁などの構造材は再利用するのが当たり前な持続可能な社会を形成してきたのも事実で、古民家には先人の知恵が詰まっているともいえます。

かといって、近代住宅の快適さを経験済みの日本人が全て古民家を志向するとは思えませんが、先人たちの知恵を学び活かし、日本の文化や技術を後世へ残していくことは必要かつ意義のあることで、遅ればせながら日本でも景観維持も含め、古民家志向の方が増えているのも頼もしく、成熟社会の一現象と言えるのではないでしょうか。


 古民家再生協会は、古民家が再利用可能かどうかを古民家鑑定士が鑑定し、古民家を残していけるよう提案を行うなどの取り組みをしているそうですから、杉浦醫院の活用例が活かされれば光栄なことです。