大村博士のノーベル賞受賞決定で、大村氏の現在と過去がマスコミのニュースや特集番組でどんどん公になっていますが、大村氏自らもどんな内容のインタビューにも応えている感じで、飾らない人柄が浮き彫りになり、庶民的な明るい話題を提供し続けているのも「脛に傷」一つ持たない人生を送って来た自信でもあるのでしょう。
その中で、5人兄弟の長男として生まれた大村氏ですが、姉が語った弟の少年期の話で「家畜の世話など農業の手伝いはしたが勉強は全然しないで、ベルトを外してビュンビュン振り回すガキ大将だった」と云った話に親近感を覚えました。
今でこそ、ベルトビュンビュンは見かけなくなりましたが、昭和30年代後半の中学校でもケンカになるとベルトビュンビュンでしたし、高じて腰にベルト以外にクサリも巻いてケンカに備えていたツワモノもいましたから、大村氏はケンカでも負けず嫌いな少年だったのでしょう。
もう一つは、韮崎高校でスキー部主将を務め、国体の山梨県代表として活躍したスポーツマンだったと云うエピソードです。
私より15年近く前の世代で、部活にスキーを選択出来た大村少年は、とても恵まれた家庭に育ったんだと思いました。
それは、昭和40年代になっても高校スポーツで競技スキーをしていたのは、高価なスキー道具や長野県のスキー場に通う交通費や宿泊費等々から、ごく限られた裕福な家庭の子女だったからです。
そんな折、韮崎市出身の高校の同級生Y君が、大村博士の少年時代を自分の少年時代と重ねた感想をメールリンクに載せて、韮崎の風土について教えてくれました。
レンゲツツジ咲く現在の甘利山山頂