2015年10月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―447『大村智博士・地方病』

 「一億円宝くじに当たると急に親戚が増える」と同じで現象でしょうか、大村智博士のノーベル賞受賞で、当館にも問い合わせが舞い込むようになりました。


 それは、受賞決定後の超多忙な博士には取材できないマスコミが、安直な方法として当館に問い合わせてきたのでしょうが、「韮崎の農村生活での成育歴が、学問や研究への基本姿勢を形成した」と云う博士の話が繰り返し報道されていることから、「韮崎にも地方病の患者はいたのか?」と云った問い合わせから「博士が寄生虫病の薬の開発に向かったのは地方病が影響したのか?」と云った、本人に取材してもらわなければ分からないことまで多種です。

 そんな訳で、大村智博士の研究と山梨の風土病「地方病」との関係を整理してみるのも無駄ではないでしょうから、客観的な年代に即して推測してみたいと思います。

 

 大村博士の本格的研究生活のスタートを1963年に山梨大学工学部発酵生産学科に文部教官として赴任した年とすると昭和38年からになります。

 地方病は、昭和30年代になると住民の感染調査、診断も定期的に行われ、検便による虫卵検査からより正確な皮内反応検査が主流になるなど治療の徹底と予防が浸透し、県内での新規感染者数は激減していった時代と重なります。

 特に特徴的な腹水がたまる重症患者は稀になり、昭和40年代になると患者に感染したセルカリア数も少く、便中に虫卵を見つけることも困難になったそうですから、昭和30年代以降は、地方病の流行は終末期を迎えたと云えます。


           山梨県による地方病予防宣伝カー。1955年(昭和30年)頃

 ですから、大村博士が故郷の風土病・地方病撲滅を念頭に研究を始めたと云うことは無かったのでしょうが、地方病の有病地を名指しで謡った哀歌にも「 中割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶」と謡われた韮崎市中割は、大村博士が育った韮崎市神山地区に隣接していますから、大村博士もこの病に罹った農民を目の当たりにして育ったことは想像に難くありません。



更に、山梨県内では終息に向かったこの病も昭和3、40年代の東南アジアでは、猛威を振るっていましたから、甲府市立病院の林正高先生がフィリッピンの患者救済に起ちあがったように山梨大学から北里大学へと研究拠点も移した大村博士が、世界を視野にアフリカの風土病を研究対象に薬の開発を始めても不思議ではありません。




 また、大村博士は現在もブラジルの研究機関と連携して、現地の住血吸虫症患者に有効な薬の研究開発をしているそうですから、一つの国から一つの病を終息させた故郷・山梨の地方病=日本住血吸虫症根絶の取り組みや歴史は、故郷思いの博士の中に脈々と息づいているのでしょう。