母屋の屋敷蔵二階から、新たに「杉浦診察所」の看板が見つかりました。この看板の裏にも「明治24年6月開業」の折に記念保存の為造った看板であることが記されています。 昭和4年に新たに醫院棟を建設するまでは、母屋の一部を使って診察していたそうですが、この看板は現在の母屋建設前の建物に掲げられ、母屋に引き継がれた看板のようです。 8代目の健造先生は、横浜野毛の小沢良済医師に師事して西洋医学を修め、明治22年に医業開業免許状を受け、明治24年6月にこの地で西洋医学の診察所を開業しましたから、その際の記念看板であることは間違いありません。江戸時代初期に初代杉浦覚道が医業を起こし7代目杉浦嘉七郎までは漢方医で、江戸時代の医者は、往診が主でしたから、「診察所」の看板を掲げたのも健造先生が初めてだったのかもしれません。 当295話でも紹介しましたように現在の母家は、明治26年8月起工、明治27年5月上棟の記録が見つかり、完成は早くとも明治29年頃とのことですから、明治24年6月から約5年間は現在の母家と別の建物で診察していたことになります。診察所と自分たちの生活空間を分ける必要性を感じていた健造先生は、新たに診察所も兼ねた母屋建設を始め、中央に廊下を配した当時としては大変めずらしい間取りの母家が新築されたのでしょう。 明治30年から約30年間健造先生は、現在の母家の南側の部屋を診察所として使い、廊下を隔てた北側で生活していたことになりますが、「清韻」と云う号を持つ文人でもあり、座敷では歌会始め宴会などもよく催されていましたから、当時の診察所は、現在の医院とは大分趣が違うものだったのでしょう。9代目三郎先生へ引き継ぐべく、健造先生は新たな病院棟建設を昭和4年に行いましたから、現存する杉浦醫院の建造物は、車庫と旧温室以外は、健造先生の手によるもので、その後100有余年を三郎先生、純子さんが手を入れながら引き継いで、現在に至っています。