2012年9月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』

 純子さんからお預かりした数多くの段ボール箱を順次整理していますが、今回の段ボールは岩井徹氏関係の学会誌や研究資料、手紙等で、純子さんが「横浜を引き上げた時まとめたもの」だそうです。岩井氏は、当ブロク36話『純子さんの被爆追体験』の中でもご紹介しましたが、純子さんのご主人だった方で、東京大学医学部の産婦人科の医局に籍を置く研究者であり医師でした。戦争中の情報管理下で、放射能の危険性や放射線についての知識は医者や大学にも知らされず、二次被爆者を多数出しましたが、救援医師として広島に入った岩井氏も3年後に発病し、35歳の若さで他界されました。
 5年間だったと云う純子さんの結婚生活は、横浜の六角橋で始まり、岩井氏は本郷まで通っていたそうです。六角橋で借りた家の大家さん一家と純子さんは現在もお付き合いが継続されていて、先日子どもだったお嬢さんが純子さんを訪ねてみえて「純子おばさん、私も60過ぎたんですよと云われ、目が不自由になったりする訳だとつくづく思いました」と懐かしそうに話してくれました。
 段ボールの中に「ノートブック№1」と上段に、下段に岩井と記載されたノートが6冊ありました。№2から№6までは、「岩井」が「イワイトホル」で統一されています。
 「日本の産科医学をしょって立つ男だった」と評されていた方のノートを目の当たりにして驚きました。内容は分かりませんが、その約7割は英語で書かれ、几帳面な文字でびっしり医学専門用語や実験結果等が書き込まれています。方眼紙を必要な大きさに切りグラフにして貼ってあったり、割り算等の計算も全て自分で計算した跡が残り、エクセルだの電卓などない時代に「学問する」ことの緻密さと姿勢が充満していて、広島日赤病院での長期の献身的な救援医療に奔走したことを物語るに十分なイワイトホル氏のノートブック6冊です。