2012年5月9日水曜日

杉浦醫院四方山話―139 『小笠原流―1』

 合併した南アルプス市は、旧櫛形町に小笠原の地名もあり、「小笠原流」発祥の地として、「小笠原流作法」や「小笠原流流鏑馬」などを開催して、町おこしを図っています。この小笠原流は、武田の家臣・加賀美遠光からの武士の流儀を子の小笠原長清やその子孫が受け継いで確立したというのが一般的なようですが、その辺の正確な定義は、諸説あり調べてもよく分かりません。現在「小笠原流作法」や「小笠原流茶道」など分野ごとで小笠原流を名乗り、それぞれが家系図で正統性を強調し、別系統についてはお互いに触れず「宗家」「本家」「本流」等々を自称していて、「よく分からない」状況に一層拍車がかかっています。
これは、江戸時代、経済の担い手が、武士から商人へと移行していったことに起因しているようです。江戸も中期になると武家社会も豪商の財力なしでは成り立たなくなり、武士と対等で付き合ううえで商人も格式ある礼法が必要になり、武士の礼法小笠原流礼法が注目されたといいます。しかし当時の小笠原家では小笠原家伝来の弓馬礼法の奥儀は一子相伝で、余人には伝えられることはなかったため、町人がその全容を知ることは不可能でした。そんな中で、自称小笠原流師範が現れるようになり、中には、小笠原家を出て浪人しながら礼法を教え、蓄財を図るものもいたそうです。こうした小笠原家とは関係もない礼法専門家たちが、町人たちの好みに合わせて、華美で贅沢な事大主義的「小笠原流」を作り上げたとの解説もあります。まあ、家系図で家柄や血統を崇めての宗家や本家争いは小笠原流に限りませんから、これも「万世一系」の国の成せる技でしょうか。
 純子さが「母は小笠原流の香をやっていたようですが、何も話さない人でしたので、これは母のものですが・・・」と大小の巻物を多数持参下さいました。上記写真のように全て、小笠原流家元・日野節斎氏から「杉浦綾子どの」への直筆の相伝書です。「杉浦門人殿」の表記もありますから、健造先生の娘で三郎先生の妻であった純子さんの母・綾子さんは、小笠原流家元から門人と称される直弟子であったことが分かります。「不肖の娘には何を云ってもしょうがないと、何も言わなかったんでしょうね」と朗らかな純子さんです。