2012年5月18日金曜日

杉浦醫院四方山話―141 『小笠原流―3』

    「母の時代の方々は、皆さんよく勉強していましたね。私なんか女学校でも教練や軍需工場での日々でしたから勉強は全然していません。恵泉でも造幣局へ動員で、印刷されたお札の検査でしたから学校では勉強してない世代ですが、それなりに楽しい学生生活でもありました」と純子さん。「歌手のディック・ミネさんが三根耕一と日本名に改名した時代でしたから、恵泉の河井道先生は、当局からは目をつけられたと思いますが、抵抗して自由な雰囲気を大切にしていました」と恵泉女学園のリベラルな校風を懐かしそうに語ってくれました。「そう云えば、戦時中はフェリス女学院も横浜山手女学院とか東洋英和は東洋栄和と改称したようですね」「そうです。敵国語とか米英を連想させるモノは排除した時代でしたが、恵泉では、英語の授業も礼拝もありましたから・・」「純子さんのグローバルな考え方やリベラルな生き方は、恵泉で筋金入りになった訳ですね」「私は、ただいい加減なだけですが、河井先生はじめ留学経験のある方が多かったのが校風になっていたんでしょうね」と自分の事はいつも「いい加減ですから・・」と一笑に付す純子さんですが、実は綾子さんに劣らぬ「勉強家」であることは、話の節々からうかがえます。


 小笠原流の「香」を通して、小笠原流「躾禮」全般を習得した綾子さんは、純子さんが述懐するように「書」も「裁縫」も「百人一首」も「料理」も・・・と、多岐に渡って長けた方であったと語り継がれています。その背中を見て育った純子さんは有楽流の「茶道」を継続しています。音楽から映画、古典や文学といった芸術全般から社会や生活の知識まで、いくら「いい加減ですから・・」と謙遜しても目を見張る知識教養や決断力、会話力等は隠しきれません。

 日本文化に精通し、感性の人として著名な白州正子は、幼少から父愛輔が出会わせた「能」の思考と切っても切り離せないと云われています。「能」を核に四方八方にその感性がリンクして「白州正子は白州正子になった」と評伝されています。現代では、内田樹が合気道など「武道」を核に文学から社会学まで幅広い発信力を備えた学者として活躍していますから、日本古来の「文化」を習得することで、広がる興味や教養は再考に価するように思います。内田が、これからの教育は「からだを賢く、あたまを丈夫にする」ことを目指すべきだと云っていますが、小笠原流を含め日本古来の文化をきちんと習得することが、「丈夫な頭づくり」には欠かせないのかな・・・と。