純子さんから「こんなカメラが出てきました。確か父が昭和28年にマニラの太平洋学術会議に行く時、購入したものだと思いますが」と箱に入った一眼レフカメラを持参下さいました。
本当かどうか定かではありませんが、「カメラは、暗い箱という意味だ」と中学生の時に聞きました。当時からむやみに明るいのが苦手だった私は、「暗い箱」や「暗室」に親しみを覚え、写真部に入りました。そんな訳で、カメラについては、ちょっと思い入れもあり、うん蓄も・・・・で、中学生だった昭和30年代の末は、「キヤノネット」と云う35ミリカメラが発売され、当時としては明るいF1,9のレンズが付いて、2万円を切った価格だったことから爆発的に売れた時代でした。間もなく「オリンパスペン」や「キャノンデミ」と云った、ハーフサイズカメラが登場した時代でもありました。当時はフィルムが高く、このハーフサイズカメラは、36枚撮りのフィルムで72枚撮れるということで、中高校生には人気でした。しかし、現象や焼付け、引き伸ばしなどのプリント代も高かった訳ですから、たいしたメリットがないことが分かり、人気も失速していったように思います。この後、「ペンEE」など、完全自動露出のシャッタースピード優先式EE機構が開発され、更にピント合わせの焦点まで何もかも全てカメラにお任せの「バカチョンカメラ」とも呼ばれたオートフォーカスカメラが誕生し、「ピンボケ写真」はぐっと減りました。この「バカチョン」については、差別用語だと社会問題にもなりましたが、「バカみたいにシャッターをチョンと押せば撮影できるカメラ」という意味で、特に問題ないと云ったいい加減な形で落ち着いたように覚えています。要は「バカチョンカメラ」以前のカメラでは、 露出(シャッター速度と絞り)、焦点(ピント=フォーカス)の各要素を適切に操作する必要があり、カメラに関して専門知識や研究心のない人にはハードルが高く、まともな写真は「写真館」で撮る時代が長く続きました。「父は新しい物好きで、すぐ飛び付きましたが、フィリピンで撮った写真もピンボケが多く、興味をなくしたようで、そのまま箱にしまってしまいました」と云うアサヒペンタックスKは、キングのKを冠にした1眼レフの王様でもありました。人間の目の明るさと同じF1,8のレンズにオート絞り機構がつき、レンズ交換も可能な当時4、50万の大変高価なカメラで、箱にはボデイー番号、レンズ番号まで記載されています。
三郎先生が「日本住血吸虫症」について発表した太平洋学術会議は昭和28年、ペンタックスKは昭和33年発売で間違いありませんから、三郎先生の名誉の為にも「フィリッピンのピンボケ写真は、ペンタックスK以前のオート絞りのないカメラだった」ことになります。正確無比な純子さんの記憶ですから、その辺の行き違いを想像すると「思い出のマニラの写真が思いのほか出来が悪かった為、三郎先生は、最新式のオート絞り機構の付いたペンタックスKの発売を知り、即購入したカメラ」が真相ではないでしょうか。あっという間に「デジタルカメラ」が席巻し、ついこの間まで重宝していた「写るんです」の使い捨てカメラさえ忘れ去られそうですが、ニコンFの兄貴格である「アサヒペンタックスK」、シンプルなデザインながらどっしり重く風格あるボディーには、惚れ惚れします。