昨日、杉浦邸母屋座敷で「清韻亭コンサート」が開催されました。杉浦医院6代目大輔先生は、医業もさることながら、清韻の号で、歌を詠み、書をしたためた文人でした。 明治中頃の建築と云われる母屋も清韻先生が建てたのでしょう、座敷には「清韻亭」の額があることは、四方山話―77『清韻亭(せいいんてい)』で紹介したとおりです。
「清韻亭」の額が見下ろすこの座敷で、杉浦家では代々多彩な催しが開催されてきました。大輔先生の時代には、歌人が集まっては、季節ごとや歳時に合わせ歌会が開かれ、花鳥風月を詠みあったことでしょう。健造先生の時代には、毎年、ホタルの舞う時期に若松町の芸者を交えての「ホタル見会」が催されていたそうです。マルヤマ器械店の丸山太一氏の父・文造氏も毎年招かれ、「父は、杉浦さんのホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者は、みんな西条に行って、空っぽだったそうです」と話してくれました。また、当時の山梨時事新聞には、杉浦家のホタル見会に合わせ、昼は座敷に面した庭園で、野点が開かれたことが写真入りで報じられています。明るいうちは茶を愉しみ、夕方からホタルを待ちながら酒をかたむけ、ホタルが舞いだすと庭園の池から鎌田川へと散策しながら昭和の源氏ホタルを愛で、座敷に戻って本宴会と時間もゆったり、内容も豊かな「ホタル見会」だったようです。昭和4年の医院新築の上棟式でもこの座敷で大宴会が開かれた様子が写真に残っています。「祖父は、お酒はだめでしたが宴会好きで、飲んだふりして陽気に振る舞っていました」と純子さん。その後もこの座敷では、親族の結婚式や有楽流の茶会が定期的に開かれ、師匠の純子さんが、日常的に後進に茶の道を教えたりして、現在に至っています。
「清韻亭」の額が見下ろすこの座敷で、杉浦家では代々多彩な催しが開催されてきました。大輔先生の時代には、歌人が集まっては、季節ごとや歳時に合わせ歌会が開かれ、花鳥風月を詠みあったことでしょう。健造先生の時代には、毎年、ホタルの舞う時期に若松町の芸者を交えての「ホタル見会」が催されていたそうです。マルヤマ器械店の丸山太一氏の父・文造氏も毎年招かれ、「父は、杉浦さんのホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者は、みんな西条に行って、空っぽだったそうです」と話してくれました。また、当時の山梨時事新聞には、杉浦家のホタル見会に合わせ、昼は座敷に面した庭園で、野点が開かれたことが写真入りで報じられています。明るいうちは茶を愉しみ、夕方からホタルを待ちながら酒をかたむけ、ホタルが舞いだすと庭園の池から鎌田川へと散策しながら昭和の源氏ホタルを愛で、座敷に戻って本宴会と時間もゆったり、内容も豊かな「ホタル見会」だったようです。昭和4年の医院新築の上棟式でもこの座敷で大宴会が開かれた様子が写真に残っています。「祖父は、お酒はだめでしたが宴会好きで、飲んだふりして陽気に振る舞っていました」と純子さん。その後もこの座敷では、親族の結婚式や有楽流の茶会が定期的に開かれ、師匠の純子さんが、日常的に後進に茶の道を教えたりして、現在に至っています。
加齢による視力の衰えを理由に茶会やコンサートへ出向くことを断っている純子さんに長く懇意にしてきたNさんが、「オンリーワン・コンサート」を企画してくれたのが、今回のコンサートです。 Nさんの友人で、薩摩琵琶奏者清水えみこさんが、純子さんの為に出向いて演奏してくれることになり、純子さんから「私一人が聴くのではもったいないので、急ですが、聴きたい方には来ていただいて・・」と広がりました。先月から、この「清韻亭」での茶会も復活しました。歴史的建造物を会場に伝統文化を純子さん共々愉しみながら継承していこうという多彩な方々の取り組みは、杉浦家代々が「清韻亭」で、綿々と続けてきた文化蓄積でもあることを今回のコンサートが、静かにしっかりと物語っていました。