2019年6月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―585『武田信玄の治水と稲作または文化人類学者の視点-1』

 過日、広島大学の准教授で文化人類学者の松嶋健先生と同志と云う死語がピッタリの広瀬隆士先生が土日の2日間を利用して、山梨にフィールド・ワークにみえ精力的に県内を廻りました。当ブログを愛読していると云う広瀬氏から「石和温泉に投宿するが素泊まりで食事は地元の人が使う居酒屋あたりで・・」と事前に連絡をいただきましたので、居酒屋と聞けば「ご一緒しましょう」と石和温泉通りのAに予約を入れ一献傾けました。


 両氏は「日本社会臨床学会」と云う学会に所属し、中心メンバーとしてご活躍もされていますが、話が多岐に渡るだけでなく深く、速いのが共通していました。そんな訳で、約3時間飲みかつ話した内容は豊富で、とても全ては紹介出来ませんので、地方病とミヤイリガイは、なぜ日本国内で限定的な地域に発生したのか?の謎についての話を報告しておきたいと思います。


 松嶋先生は文化人類学がご専門ですが、2014年に刊行された著書「プシコ ナウチィカ」は「イタリア精神医療の人類学」と副題があるようにイタリアの精神医療の到達点を紹介することで日本の精神医療の課題や問題を照射する鋭い考察で、現在、日本の大学医学部では学生の必読書にも選定されているそうで、既に4刷を重ねています。


 その松嶋先生から「山梨には三枝氏と云う豪族もいたのに武田氏に一本化されたのは信玄の治水でしょうか」の問いかけから始まり「世の中で常識とか定説になっている事に❔と疑問を抱くのが文化人類学だから・・・」と「信玄の治水事業が甲府盆地に地方病を蔓延させた可能性が考えられる」ので、その辺の検証も今回訪問のテーマであることを知りました。


 当館の住所は昭和町西条新田850ですから、江戸時代の新田開発で新たに西条地区に生まれた新田に由来していることを物語っています。山が多く、平地の少ない日本列島で、弥生時代に稲作が伝播し、人は定住し水田は各地に広がっていきました。以来、稲作を中心とする国土づくりと米が社会の基本=税の時代が続き、人々は森林から湿地、沼地まで水田化し農業を営み、むらをつくり、都市へと「発展」させてきました。稲作文化とその風土は、日本人に勤勉の気風をはぐくみ、農地を拡張して人口を増加させることを「発展」「繁栄」の基礎としてきましたが、それが本当に「発展」「繁栄」だったのか?

文化人類学者の視点です。


 杉浦醫院に来た患者さんは「俺も地方病になったぞと、ちょっと自慢気で威張ってましたよ」と、純子さんが話してくれましたが、「地方病は勤勉な篤農家の証」ともなっていたようですから、稲作が日本人の価値観を形成してきたのも間違いないでしょう。


 「群雄割拠」の戦国時代、多くの権力者が日本の各地に大小さまざまな国を乱立させ、甲斐の国山梨では、武田信玄が争い生き残って勢力を広げ、天下統一も現実のモノとする権力を持ちましたが、子・勝頼の代で終焉したのはご存知の通りです。信玄は、治水事業を命じて水を管理し、水田を増やすことでアワ・キビ・ヒエなどに代表される雑穀から米への転換に成功したことも権力奪取や維持に大きかったことは、歴史学者も指摘しています。

 

 「石高(こくだか)」と云う単位の一石は、大人一人が一年に食べる米の量でしたから、これが兵士への報酬となり、領地の石高と同じだけの兵士を養えることになります。石高は戦国武将の財力と兵力を象徴しますから、武田信玄も暴れ川を「甲州川除術」を考案して治水に努め、石高増強を図る必然性があったのでしょう。

 新たに水田を拡げるには水路を張り巡らす必要もありますから、当時としてはとてつもなく多難なことだった思いますが、山の急斜面にも「棚田」とか「千枚田」と云われる水田を造りましたから、共同作業による水田拡大は全国津々浦々まで浸透して、楢やブナの木に覆われた山の景観は大きく変えられたことでしょう。

 

 現在では守るべき自然景観として「日本の原風景・棚田」と云った表現も極自然に使われていますが、元々は山であった急斜面まで水田に変えた稲作は、日本の原風景を破壊した結果でもあり、歴史的には農業も自然破壊の誹りは免れないこと、この甲府盆地のような低湿地帯にも水田を拡張して石高を上げようとした信玄の治水事業が地方病蔓延と無縁と言えるのか?

文化人類学者の視点です。 ・・・つづく・・・

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このような棚田も現在では「保存する会」「守る会」等の存在なくしては山野化しているのが実態です。「現在起こっている様々な問題も100年、200年と云った短いスパンではなく、人類史的に長いスパンで見ていくことが大切ではないか?」と広瀬氏も指摘していました。

 

2019年6月24日月曜日

杉浦醫院四方山話―584『資料・情報御礼ー5 橘田活子様』

 山梨県在住の女性詩人として既に幾冊かの詩集も上梓している橘田活子さんが、数年にわたり取材と推敲を重ねてきた詩集「茶碗の欠片(ちゃわんのかけら)」が、この度百年書房から刊行されました。

 地方病=日本住血吸虫症は原因不明の奇病とされていた時代「腹張り」とか「水種腸満」と呼ばれ、山梨県では「水種腸満茶碗の欠片」と詠われて、この病にかかると「茶碗欠片」と同じで「使いものにならない」とか「元には戻れない(治らない)」と嘆かれてきました。


 橘田さんの詩集「茶碗の欠片」は、この地方病終息に至る過程を一つ一つ丁寧に追い、壮大な叙事詩としてまとめた労作です。橘田さんは当館にも何度も足を運び、その都度「記述内容に間違いないか?」「構成上のアドバイスを・・・」と進行中の原稿を持参下さいました。

 

 更に、この詩集の帯文を小生に書いて欲しいとの要請まで受け「役不足だから」と固辞しましたが、当館が地方病終息の歴史を後世に伝承していく唯一の資料館であることに思いを致せば、当館にとっても貴重な文献資料ともなる詩集ですから、推敲段階の原稿に合わせて、推薦文としての帯文を書かせていただきました。


 その後、約一年以上かけて橘田さんは、出版社と書き直しや加除等の作業を重ね「これを最終稿にしました」と、未だ推敲していきたい思いを断ち切るように見本誌を届けてくれました。「山之口獏さんも推敲魔とも云われる程推敲に推敲を重ねたそうですが、これで良しと行かないのが作品を仕上げると云う事でしょうね」と話すと「獏さんが昔山梨に来たんです。その時私もお会いしましたが、大変面白い人で魅力的でした」と矢張り獏さんに繋がる詩人であることも分かりました。

 

 帯文を書いた当時の原稿は更に膨らみ、内容も山梨県の終息史と云うより、広島県や佐賀県の終息への取り組みや関係者を網羅して、文字通り日本住血吸虫症を克服した日本全体の終息史となっていました。一読後、百年書房の担当者に「内容が一層充実しているので、それに見合った帯文に書き換える必要」を申し出ましたが「橘田さんも私もあの帯文で十分ですから是非そのまま使わせて欲しい」とのことで、帯文はさておき立派な装丁本に仕上がりました。

「橘田活子 茶碗...」の画像検索結果

 橘田さんからは「筆稿料替わりで恐縮ですが・・」と詩集「茶碗の欠片」を過分にいただきましたので、見学時間の関係で全てを案内しきれない方に「この詩集で地方病終息史を一気に学習できますから」とプレゼントして活用させていただいています。


 同時に、百年書房から一冊2200円+税金のところを2000円で頒布可能と云う事で、20冊お預かりしていますので、ご希望の方には当館でも頒布いたしますので、お申し出ください。

2019年6月5日水曜日

 杉浦醫院四方山話―583『資料・情報御礼ー4 吉岡正和様』

 ≪橋本伯壽と「断毒論」ー早く登場しすぎた疫学者≫と云う400ページに及ぶ新刊本をご存知でしょうか?著者は山梨県で医院を開設している医師の吉岡正和氏です。

 

 吉岡君と私は高校の同級生でしたが、理系の彼と文系の私が同じクラスになることはありませんでしたから、高校時代面識はありませんでした。大学卒業後数年して帰郷したことが唯一の共通点ですが、同級生諸氏から吉岡君の屹立した生き方、開業医としてのありようは聞き及んでいましたので、私から電話したのが始まりでした。


 開館に向けて、地方病関係の資料収集や確認作業をしていく中で、明治30年に初めて解剖に応じた「杉山なか」女は、信頼していたかかり付け医・吉岡順作氏に死後の献体を申し出たのが病理解明のスタートでしたから「ひょっとして吉岡君は吉岡順作氏につながるのかな?」と、吉岡医院に電話しました。結果「吉岡順作氏と私は同じ吉岡姓ですが関係はありませんが、都内で行われた結婚式の席で吉岡順作氏の直系の方と同じテーブルになり話したことはあります」「卒業後、山梨医大に勤務した時、私も日本住血吸虫症について研究したこともあり、機会をみて杉浦醫院に行こうと思っていた」といったような会話の記憶があります。


「吉岡正和 誘拐...」の画像検索結果   その後、吉岡君の姉でベネズエラ在住の雨宮洋子さんが、身代金目的でベネズエラで誘拐されると云う事件に遭い「極限状態を彼女はいかに生き抜いたのか?またその時息子達はどう行動したのか?在ベネズエラ日本人の苦闘の記録」を吉岡君が編者となり≪カミーラと呼ばれた230日≫と題した本(2015年・東京図書出版刊)にまとめ出版したことを知り、拝読しました。人質となった期間、お姉様は「書く」ことを支えに最後まで気を確かに持ってきた様子が読み取れましたが、同時にだからこそ貴重な記録として残すことが出来たことも実感しました。

医師の吉岡君も「ものを書き散らすこと、これが私の心の平静を保つ対処法のようなものになっています」と云いますから、吉岡兄弟は「書くこと」が血肉化しているのでしょう。

 

 さて、今回ご寄贈いただいた≪橋本伯壽と「断毒論」ー早く登場しすぎた疫学者≫は、令和元年5月1日第一刷発行ですから、出来立てを送付くださったことになります。

吉岡君は「恥ずかしながら、私も橋本伯壽や断毒論の事を全く知らなかった。知るに至ったのは、日本住血吸虫症の古文献が有るか探している時であった」と江戸時代後期の医家・橋本伯壽が甲斐の国市川大門村の生まれで、当時の学説を覆す「断毒論」を1810年(文化7年)に発表したことを知って「甲斐国にこんな人物がいたということに無知であったことを恥ずかしく思い、また山梨県の人々にもこういう活躍をした人がいたことをあまねく知ってもらいたいという思いで、本書を記した。郷土の歴史にとって参考になれば幸いである。」と結んでいます。

 

 山梨の郷土研究者が集う「山梨郷土史研究会」の郷土研究に関する文献目録が会のホームページで閲覧できますが、長い歴史を誇る研究会の全論考をいくら探しても「橋本伯壽」の名前も「断毒論」も出てきません。吉岡君が副題にした「早く登場しすぎた疫学者」は、郷土では「早く忘れ去られた疫学者」であったことを物語っています。

そういう意味でも新たな郷土史発掘者としての吉岡正和君の新刊を是非当館2階座学スペースで手に取ってご覧ください。

2019年5月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―582『資料・情報御礼ー3 谷口哲雄記者様』

 新聞の毎日・読売・朝日は、中央三大紙とも呼ばれていますが、毎日新聞が1872年創刊で日本で最も古い歴史を誇る新聞のようで、戸別配達を世界に先駆けて実施したことにより、日本では地方紙も含め「新聞は配達されるもの」が定着したそうです。若者の活字離れやスマホの普及で紙媒体の衰退は顕著のようで、新聞の購読者数も減少の一途をたどり、値上げせずには戸別配達制度の維持も厳しいのが現実のようです。

 

 毎日・読売・朝日のような中央紙でも「山梨版」があり、県内の話題やニュースを報じていますが、取材したり記事を書く新聞記者は、転勤で甲府局に数年滞在し、異動辞令が出ると転勤を余儀なくされるようです。

 

 当館開館以来、上記3紙の中では朝日新聞の取材が突出していました。特に谷口哲雄記者は、甲府赴任約6年の間に数えきれない回数で取材にみえました。5月10日の茨城への転勤を前にわざわざ挨拶にも来ていただき、思い出話もできました。その折「山梨に来て最初の記事も地方病でしたから最後も地方病で締めようと思いました」と4月27日(土)の山梨版に「肝がん死亡率 全国並みに改善」の見出しで、貴重な記事を残してくれました。

 

 山梨県はC型肝炎の感染率や肝がんの死亡率が東日本で最も高い県として有名ですが、この一因として、地方病の治療に使われたスチブナールの静脈注射の回し打ちが挙げられていました。当18話「現代」でも触れましたが、杉浦三郎氏宛て私信の中にも杉浦醫院での注射針によるC型肝炎感染に抗議する内容のモノもありましたから、地方病との相関関係は間違いないでしょう。


 谷口記者の署名記事に共通するのは、派手なイベント的行事や事業よりコツコツと積み上げてきた成果や継続中の取り組みなどに足を運び、過去の問題を掘り起こすより、現在と未来に向けての視点での取材を基本にしていることでした。

 

 最終署名記事も山梨大学医学部肝疾患センターが、山梨県の肝がん患者の相談支援活動を継続的に行っていることを紹介し、その具体的取り組みとして「肝疾患コーディネーター養成制度」を他県に先駆けて10年前から実施してきた結果、現在384人の肝疾患コーディネーターが、市町村住民や職場で肝機能検査の受診の必要性の周知に取り組み、その成果は肝がん死亡率が全国平均化してきた数字に表れていることを伝えています。


 これは、地方病が1996年(平成8年)の流行終息宣言で終わったのではなく、地方病治療の後遺症としてのC型肝炎との闘いが現在も続いている事実に目を向ける必要があることを教えてくれます。

地方病終息の最終仕上げとも云える取り組みが、現在も山梨大学肝疾患センターを中心に行われていることを伝え、このような地味な取り組みを「百年戦争の最終段階」と結んでいるところに谷口記者の鋭い考察が表出しています。



 


2019年5月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―581『資料・情報御礼ー2 笛吹市K様』

 当館の来館者に共通する特徴は、俗に云う「物見遊山」タイプの方は皆無に等しいことでしょうか。

 まあ、漫画家で江戸文化の達人・杉浦日向子氏に言わせれば、江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っていて、生まれてきたのはこの世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えていたそうです。その象徴が一生上がれない場合もある「江戸すごろく」で、ステージを上げて行って「あがる」ことより、右往左往することに意味もあり、右往左往しながらいろいろな見聞を広めれば、もうそれで人生のもとは取れるんだという共通認識が現代社会との違いだと「物見遊山」を奨励しています。そんな意味からすると「物見遊山」タイプは皆無とはいい難い気もしますが・・・要は、連れだって右往左往しながら杉浦醫院に来るのではなく、目的をもった方々が一人で来館するケースが多いと云うことです。


 連休中、笛吹市から来館のK氏は、ガイド案内に従い館内をじっくり見学し「あらためて地方病の歴史を知り、後世に繋いでいくことの大切さを感じました」と感想を寄せてくださいました。

 

その折、応接室に掲示してある「昭和天皇と三郎先生」のスナップ写真の撮影場所が特定できていないことを知ったK氏は「背景に写っている山なみと鉄塔」をカギに特定可能ではと考えたようで、翌日には思い当たる3地点に出向いて実際に写真撮影した資料を郵送くださいました。

このコピー写真ではハッキリしませんが、三郎先生の右肩上に鉄塔があり、その背後に茅ガ岳連山が写っています。
以前、来館された方が「これは旧若草町南湖の辺だね」と自信を持って断定してくれましたから、
ミヤイリガイの生息地に案内後、本部の有った旧竜王町万才に戻ったのかと思っていましたが・・・

「背景の山は、左に裾野を引く茅ガ岳とその右に観音峠、そして曲岳へと続く山並みです。山並みは見る角度によって少しずつ変わりますので、本日(4月29日)朝にイオンタウン、開国橋、そして白根インターの3地点から撮影して見比べてみました」と3地点からの解説入りの山並み写真を提示して、もう一つのポイント鉄塔は「送電線であり、これは地上権の関係もあり戦前から今日まで同じ場所である可能性が大きい」ことも教えてくださいました。


 その上で、K氏は「この写真が撮影されたのは、おそらく杉浦醫院の近くの送電線の南側、地名で云えば旧竜王町玉川から昭和町押越にかけての範囲が有力ではないかと考えます」と結論付けていただきました。


 このように来館者が写真の撮影場所を特定する為にご尽力頂いた以上、遅まきながら他のスナップ写真も参考に何とか特定しなければ申し訳がたちません。

 テントを張って顕微鏡なども用意して昭和天皇を迎えた本拠地は、旧竜王町万才であることは間違いありませんが、掲示してある写真の撮影場所は、そこから移動しての可能性もあったことから特定できていませんでした。

数あるスナップ写真を一枚一枚確認したところ二人が立っていた左端にテントを固定するロープが写り込んでいる写真がありましたから、昭和天皇と三郎先生が採集したミヤイリガイをテント内の顕微鏡で直ぐ観られるようミヤイリガイ生息地の土水路近くにテントを張り、そこを本部とした巡行だったことが分かりました。

 

 K氏に特定していただいた「送電線の南側で北の背景の山は茅ガ岳・・・山並みです」の旧竜王町玉川は、旧竜王町万才の隣ですからぴったり一致します。K様のご尽力で、また一つ展示物の解明も進みましたこと、この場で恐縮ですが厚く御礼申し上げます。

2019年5月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―580『資料・情報御礼ー1 東広島市K様』

 前話の依田賢太郎氏からの寄贈本に続き、この連休中も貴重な資料や正確な情報を幾つかお寄せいただきましたので、お礼方々、ご紹介させていただきます。


 4月28日に広島県からお一人で来館くださったK氏は、東広島市の公務員の方ですが、当館ホームページ上の「地方病について」の文章の中に誤記があることを来館時にもご教示いただき「正確な資料を後日送ります」と帰られました。


ホームページ上では、「地方病」について次のように記載しておりました。

≪地方病とは日本住血吸虫の寄生によってヒトを含む哺乳類に発症する寄生虫病であり、山梨県甲府盆地底部、利根川下流域の茨城県、沼田川流域の広島県深安郡片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部など、ごく限られた地域にのみ存在した風土病である≫


 K氏は、上記赤文字の部分が誤記であると国土地理院地図と共に次のように指摘してくださいました。

「芦田川と沼田川の位置関係について別紙のとおり地図をお送りします。カラー画像をFAXしているので写りが悪く見にくいと思いますが、片山病旧有病地を通って福山市に流れる川は「芦田川」です。沼田川(ぬたがわ)は三原市に流れていきます」

「片山病(地方病)に関連する河川は芦田川とその支流の加茂川と高屋川ですが、片山地区でちょうど合流し、芦田川にはさらに下流で合流します」と。

 

 ホームページ立ち上げ時にトップページに幾つかの項目を載せる為文章を書きましたが、正直なところ「地方病について」の記載は、何らかの資料を転載したようです。それは、私自身が「芦田川」「沼田川」という固有名詞に全く記憶がないことでもバレバレです。

あらためてグーグルマップで「旧・片山地区=現・福山市神辺町」を確認しましたが、K氏のご教示どおり芦田川と沼田川は同じ県内を流れる川とはいえ旧・片山地区をかすりもしていない沼田川は明らかな間違いで、未確認のまま転載していたことを反省しましたし、何より早速正確な記載に訂正できることを感謝申し上げます。


 K氏から旧・片山地区は福塩線の神辺駅から西方1Kmほどの地区であることも教えていただきましたから、ストリートビューでその一帯を観ると最初に出てきた画像で思わず「えー」と驚きました。それは、山を背景に広がる平地にはコンクリート水路が整備された田圃が広がり、民家の造りや大きさも何だか見慣れた昭和町や韮崎市など山梨の田園風景そのままだったからです。


 若いK氏が、片山病(日本住血吸虫病)を知ったきっかけを「片山病対策に当たった一部事務組合⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆の名称に驚いたところからですが、これには昭和天皇の戦前戦後2回の行幸がきっかけであると日本獣医師会雑誌の記事が伝えています」と記し、昭和55年に解散した⦅御下問奉答片山病撲滅組合⦆についての詳細も広島県ホームページで確認できることまで教えてくださいました。


 初耳の「御下問奉答片山病撲滅組合」は、山梨県にあった「山梨地方病僕滅協力会」と同じ目的の組織であることは予測がつきますが、「御下問奉答」の接頭語はK氏も驚いたように「なぜ?」と調べたくなります。


 これについて「日本獣医師会」サイトの論文に以下の説明がありました。

 ≪ー前略ー 戦後,全国を巡幸された天皇は1947年12月(昭和22年),備後路の旅で神辺小学校を訪れた.このとき,案内役の楠瀬県知事に「その後,片山病はどうなっていますか」と尋ねられて関係者を感激させた.このことから福山市と神辺町では,市議会と町議会の中に御下問奉答特別対策委員会を設置し,県でも翌年「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,一層の防除対策に取り組むこととなった.-後略-≫と。

 

 天皇の発した一言「その後,片山病はどうなっていますか」が「広島県地方病撲滅組合」の名称を「御下問奉答片山病撲滅組合」に改めさせたと云うことです。戦前のことなのかと思えば昭和23年の戦後ですから、約70年を経た令和の代替わりでも異様とも思える皇室報道が続いたこの連休中を思い返すと「さもありなん」とか・・・複雑な気持ちになります。 

2019年5月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―579『依田賢太郎氏からの寄贈本』

 4月に当ブログで2話に渡って依田賢太郎氏の著作「いきものをとむらう歴史」とその中で取り上げられている杉浦健造と「犬塚」について紹介してきましたが、そんな縁で、この度依田氏から当館に2007年刊の「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」と2018年刊の「いきものをとむらう歴史」の2冊の著書をご寄贈いただきました。


 2冊とも社会評論社から刊行された本ですが、依田氏は2005年には子どもを対象にした「東海道どうぶつ物語」を東海教育研究所から刊行していますので一貫してどうぶつと日本人の関係をテーマに調査研究をしてきたことになります。

 

 精読させていただくと単に「どうぶつのとむらい」の足跡をたどった本ではなく、依田氏の人生観、哲学が依田氏をして足跡をたどらせたことが分かります。

それは、執筆にあたって参考にした文献一覧にも表出されています。

柳田国男や谷川健一、川田順造、鯖田豊之と云った多くの民俗学者の著書、山折哲雄や梅原猛から末木文美士までの宗教学者の著書をはじめ歴史学者や哲学者の著作や県史や各教育委員会発行のガイドブックまであらゆるジャンルの資料を紐解いて、依田氏が集大成した哲学がどうぶつを通して語られていることを参考文献一覧が物語っています。

 

 また、「私はこれまで、病気や事故で失われた人間の体の働きを助けるための人工臓器や、痛みを取り除くための装置などの研究をしてきました」と云う工学博士の依田氏ですから「ネズミなどの小動物の血液や細胞を使った最小限の実験が欠かせなかった」と云う現実に直面して「どうぶつのとむらい」と日本人の歴史に向き合うようになったようです。

これは、自分の仕事に誠実に関わると観えてくる世界も広がり、解明すべき課題も次々に押し寄せ、結果として上記のような広いジャンルの資料も読み込む必要に迫られると云う研究者の宿命に忠実だった依田氏の姿勢と視点の確かさに拠るものでしょう。


 依田氏は「どうぶつのお墓をなぜつくるのか」のエピローグで、動物塚は「いのちの物語」であるとして、最後に「贅沢で、無駄の多い、豪奢な生活を追い求めるのではなく、簡素で、無駄のない、足ることを知る生活が求められています。動物や自然はそのことを教えてくれます。そして、簡素をとるのは勝れて積極的な選択です」と結んでいます。


 多くの「いのち」に向き合ってきた杉浦醫院に依田氏寄贈の「いのちの物語」の著作本が新たな資料として展示出来ることは、健造先生が「犬塚」建立に流した汗が約百年後に同じ高校の同窓生によって結実した不思議な縁も感じます。小学生向けの「東海道どうぶつ物語」も購入して揃えておきますので、杉浦醫院で親子ご一緒に「いのち」についても学んでみてはいかがでしょう。