2020年1月14日火曜日

杉浦醫院四方山話―603『山梨県の歌』

 最近の山日新聞広告記事に桔梗屋の中丸会長がエッセイ風に「山梨県の歌」について記していました。その新聞が手元に無いので正確さに欠けますが「隣県の長野県民は現在でも県の歌を老若男女が歌っているのに山梨県の歌は知っている人の方が少ない」と現状を嘆き「自分が子どもの頃は毎日ラジオから流れ、自分も歌ってきた」として、歌詞と譜面も紹介し「歌い繋いでいこう」と呼びかけていたように記憶しています。


 中丸氏と私は同世代ですから「確かに朝のラジオで流れていたなあ~」と思い出しましたが、中丸氏のように歌えるかと云うと歌詞もメロディ―も不確かで、郷土愛の差異かな?と思いましたが、桔梗信玄餅の一貫した懐古調CMは、会長の好みからかな?とも思いました。


 そんな訳で「山梨県の歌」について調べてみると1950年(昭和25年)に県政60周年記念事業の一環として歌詞を公募して8月12日に制定されたそうです。公募の結果は「入選該当作品無し」だったそうですが、佳作の1編を審査委員会が補作し、審査委員会が依頼した岡本敏明氏が作曲したそうです。


  このように山梨県に限らず全国47都道府県が都道府県民歌を制定しているそうですが、どれだけ県民に浸透しているかと云うと長野県がむしろ特異で、山梨同様が実態のようです。

 その原因は、県民がこぞって県の歌を希求して出来た県民歌ではないと云う誕生の過程にあるようです。

 

 山梨県が県歌を制定した目的は「戦後の混乱期にあって、郷土の素晴らしさを認識し、理想山梨建設の郷土愛を高揚させよう」と云う時代的背景からで、県民の復興意欲に「歌」が貢献することを「軍歌」で学習済みだったのでしょう。このように山梨県と同時期に制定された県民歌は「復興県民歌」と分類されていて、GHQが策定を奨励したことで作られた為ですが、もう一方、都道府県民歌で最も多い制定動機は「国体開催」に伴う制定だったそうです。


 

 第41回の山梨国体は、「かいじ国体」と銘打って1986年(昭和61年)に開催されましたが、全都道府県の最後に主会場として開催された国民体育大会でした。これは地方病終息宣言が出せない結果でもありましたが、山梨国体開催に合わせて新たな「歌」も作られました。

 かいじ国体の歌は、作詞:安藤壮一 作曲・編曲:早川博二 歌:デューク・エイセスで「富士晴れやかに」だったそうですが、中丸氏はご記憶でしょうか?

同時にかいじ国体音頭として「ふれあい音頭」が作られました。作詞は矢崎勝巳、作曲は市川昭介、編曲:斎藤恒夫で歌手の三船和子さんが歌ったそうです。


 このように「復興県民歌」として県歌が誕生した後、国体を開催した県ではそれぞれ歌や音頭を作り、それを機にその歌を県歌にしたそうですが、復興県民歌より国体時の歌の方が親しまれたことから、県歌を代えた県もあるそうです。


 まあ、音楽のジャンルも多岐になり、好みも多様化が進む現在、昭和25年当時のプロパガンダ的要素も見え隠れする歌を県民に強いても定着は難しいでしょう。

長野県の県歌の定着は「信州学は成立するけど甲州学は成立不可能」と看破した歴史家・色川大吉先生の論に理由があるようにも思いましたが、「君が代」同様、命令や強制によって歌わせても意味が無いことだけは確かでしょう。