杉浦醫院四方山話―377『コレクション考』
杉浦家は、初代・覚東氏が当地で江戸時代初期からから医業を営み、7代道輔氏まで漢方医で、慶応2年生まれの8代・健造氏は近代医学を学び、9代・三郎氏まで引き継がれた医業・医者の家系であり、この一帯の地主でもありました。
杉浦家歴代が構築してきた家風は、医学に限らず、書や絵画を描き歌を詠み、蛍を愛で、茶を嗜む等々の文化的嗜好が顕著で、代々が収集してきた書画骨董をはじめ「杉浦コレクション」と呼ぶにふさわしい収蔵品が残されています。
「コレクション」は、本来の実用的な機能から切り離されて、日常とは別の体系に組み込まれているモノを云いますから、杉浦醫院に多数残る「カルテ」は、医者には必要な実用品でしたから、杉浦家のコレクションとは言えませんが、風土伝承館杉浦醫院にとっては、史料的価値のあるコレクションとなります。
また、売るために集められた品物の集合もコレクションではありませんから、旧温室に展示してあるマルヤマ器械店から寄贈された医療機器も丸山さんにとってはコレクションとは言えませんが、当館にとっては、カルテ同様貴重なコレクションと云えます。
同時に、「杉浦コレクション」として保存していく場合は、構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていることも大切な要素となります。
杉浦純子さんから町にご寄贈いただいた杉浦家の収蔵品は、より良い保存と必要な修復など「特別な庇護」が町には求められます。杉浦コレクションを保存しながら公開していくために町では、土蔵と納屋をギャラリーへと改修工事を行ったのもその具体化の一つですし、一点一点写真に撮り、寄贈品目録の図録化作業を進めています。
三郎先生の長女・純子さんと二女郁子さん、三女三和子さんはご健在で、純子さんは東京在住の妹さん達とよく電話で話していますが、純子さん同様妹さんたちからも「町で残してもらうのが一番だから、私たちは何もいらない」とおっしゃっていただき、現在に至っています。
ここに来て、純子さんのもとには「町にやるなら、私に譲って欲しい」と云う要望も多いようですが、個々の収蔵品が個人に散逸した場合、集合体としての杉浦コレクションの価値は落ちますし、個人に渡った品の行く末も案じられます。
昭和町西条新田に江戸時代から続いた杉浦家が代々医業を営み、この地の風土病であった地方病の研究治療の第一人者として患者を救い、地域医療に貢献しつつ文化的趣味生活の一環として価値ある品々を収集してきた証が、杉浦コレクションです。
モノには,本来それにふさわしい場所というものがあります。「取らずともやはり野に置けレンゲソウ」の句を出すまでもなく、その辺については、相続争いして分散していた文豪のコレクションも最終的には公共施設に寄贈され、記念館となった例など歴史的教訓も多数ありますから、杉浦家の意志を尊重されるよう切に望みたいものです。