杉浦醫院四方山話―376『土蔵の建築年が判明』
純子さんは「お蔵は、母屋(明治25年築)の後に建てたそうですから、明治の終わりか大正時代の建築だと思います。納屋はお蔵が手狭になって建てたようですが、新館(昭和4年築の病院棟)より前ですから大正時代だと思います。」と、土蔵と納屋の建築について教えてくれましたが、確かな建築年は不明でした。
新たに純子さんから預かった手紙や写真などの資料の中に土蔵新築に伴う石屋さんの領収書があり、土蔵の建築年が確定できました。
手書きの領収書は、「甲府市穴山町 志村三代蔵」と云う石屋さんのもので、「土蔵下に入れた山崎石の代金や石工十五人の工賃、セメント代金」等が記載され、「明治四十五年三月七日」とあります。
登録有形文化財の申請をした折に来た文化庁の調査官も「明治後期から大正にかけての典型的な土蔵づくりの建物」と評していましたから、符合します。
明治45年は、1月から7月までで8月以降は大正元年でもありますが、この時代の「六拾参円」が、現代の幾らに相当するのかはモノによっても違い換算は難しいようです。
例えば、明治45年の白米10キロは、1円位だったそうですから現在は約3500倍位になっているわけですが、消費者物価等の統計資料を単純に換算すると明治末期と現代では、約8000倍となるようで、これも家などの建築費になると大工さんの賃金も入ってきますから、単純には比較できないようです。
杉浦家に残る古い資料を拝見していつも感心するのは、この時代に書かれたものは全て達筆な手書きであることです。石屋の主が記した(であろう)この杉浦様宛の領収証もご覧の通りです。
和紙に墨の毛筆が主要な筆記具であった時代には、専門書家以外にも数多くの能筆の人が存在したわけで、それらの人たちの書は、決して書家と呼ばれる専門家の書に劣るものではないように私には思えます。書家の字が見事なのは当たり前ですが、市井の石屋が仕事の一環で書いたこのような書を目の当たりにすると、この人たちは、自分が能筆であることは意識していたかも知れませんが、書家になろうなどとは考えたこともなかったのが、またとても素敵なことだと思えてきます。