杉浦醫院四方山話―334 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-3』
重箱の隅をつつくような綿密さを要求される類のことは、苦手意識が先ず働いて前に進めなくなる癖は重々承知していましたが、この玉籠集も正確な内容を捉えようとすると少ない資料にあたったり、縁者に聞くなど細かな積み重ねが必要になり、手こずります。
前話に引き続く玉籠集奥付の次ページトップには「道輔・西条新田・杉浦道輔」その下に「大輔・ 道輔男」更に「八百代・大輔母」の名前があります。杉浦家5代目杉浦道輔と妻の八百代、その子大輔の3氏の作品が掲載されていますという案内でもあります。
当164話「風土を伝承するー5」を参照いただくと山本家および杉浦道輔氏の概要がお分かりいただけますが、道輔氏は、「巨摩郡落合邨宗持神社神主矢崎義陳氏の第七子で杉浦家に養子として入った」ことが、杉浦健造先生頌徳誌に記されています。一枚目の写真右下中央に「義幹・落合・矢崎筑前」の名前がありますから、道輔氏の兄弟だった方でしょう。
また、頌徳誌よると、道輔氏は、「後年清韻道人と号し、門人には逸見筋塚川に於いて医業を開始せる三井栄紹の子栄親を始め多数あり」ともあり、一枚目の写真左上に「栄親・塚川・三井将監」の名前があり、頌徳誌の記載どおりです。大輔氏の子が健造先生ですが、1866年生まれですから玉籠集が編まれた当時2歳では流石の健造先生も歌は詠めなかったのでしょう。
しかし、杉浦健造先生頌徳誌には、健造先生の歌もたくさん収録されていますし、清韻と号した祖父道輔氏を顕彰すべく「清韻先生寿碑」を建立したのも健造先生ですから、医業のみならず幅広い文芸活動を代々この地で継続してきた文化の蓄積が、現在の建造物や庭園、収蔵品に表象されてると言っても過言ではないでしょう。
更に「久紀・西条・野呂瀬源右衛門」隣に「久富・野呂瀬茂右衛門」があり、西条ですからあの野呂瀬さん繋がりだろうと予想出来ます。
こうして観ていくと江戸末期の西条村には玉籠集に掲載された歌人が10人いたことになりますから、西条村は短歌村でもあったと云えます。 同時に江戸末期読み書きができ、歌を詠むと云うのは、神主とか医者などごく限られた方々だったわけで、「田もつくり、詩もつくろう」と農民や庶民が文芸活動に参画するまでには、百年近い年月が必要だったことも分かります。