2013年6月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―245 『台所』

 杉浦純子さんは、明治中頃に建てられた母屋で生まれ、米寿を迎える現在もそこでお一人で生活されている元祖「おひとり様」です。広い大きな建物ですから、朝夕の雨戸の開閉や台所、風呂、トイレなど日常生活を送る移動が、純子さんの運動でもあります。
また、純子さんをほっとけない方々が、入れ替わりで何組も訪ねて来ますから、おひとり様でもお忙しい毎日で、外出しなくても世間の情報は多角的に入ってきます。
  純子さんのもとに多くの方々が見えるのは、身に着いたおもてなしの心で迎える純子さんの人徳によるものですが、これは、杉浦家代々の家風でもあるようです。
健造先生、三郎先生の時代には、多い時は4人のお手伝いさんと男性の運転手や作男が住み込み、いつも来客が居て、食事もしていたそうですから、賄いも大変だったことでしょう。

 現代では、食事までしていく来客もないのにアイランドキッチンとか対面キッチンと云った流行のキッチンで、少ない家族が小さく固まって食事をすると云うあまり意味のないモノが幅を利かせているようにも思い、「台所」について純子さんに聞いてみました。

「私が覚えているお勝手は、現在の場所ですが、真ん中に釜戸が3つありましたから、床は土間でした」
「今、冷蔵庫や保管庫がある所に、長い台がありました。テーブルのように高くなくて、低い台でしたから職人さんたちが膝を立てて何人でも座って食事ができました」
「裏が井戸ですから、水は窓から手渡しでしたね」
「ガスが入って、今のように流しが付きましたが、それまでは長い調理台でした」
「患者さんにも出す時がありましたから、甲府の魚屋さんからよく魚を届けてもらいました」
「田んぼの水の見張りがある時は、食事とお酒を届けましたが、通る人も入って宴会になって、そのまま寝てしまい、見張りにならなかったこともありました」
「お勝手を仕切っていたハナちゃんは怖かったけどよく働きましたよ。ハナちゃんたちは、客がみんな食事をしていくから、朝炊いたご飯は客に出し、自分たちはいつも炊き立ての温かいご飯が食べられると笑っていました」
「先生の所で肉を食べるのが楽しみだって云う時代でしたから・・・」と。

 料亭の厨房のような広い台所ではありませんが、調理台やちゃぶ台代わりの長い台など文字どおり台がいくつか置かれていたこの台所で、ハナちゃんの指揮で、臨機応変に料理された食事が来客に振舞われていたのでしょう。
冷蔵庫のない時代、台所はどこでも東北の日当たりの悪い寒い部屋でしたが、「男子厨房に入るべからず」の女の城でもあったことが、純子さんの話にもうかがえます。