2013年1月15日火曜日

杉浦醫院四方山話―211 『杉浦家と橋戸工務所』


 昨年8月に杉浦家の建造物5件が、国の登録文化財に登録されましたが、それぞれの建物は、全て旧田富町東花輪の橋戸工務所の棟梁が、4代に渡って関わってきました。当館のプレオープンに合わせ、現棟梁・橋戸伯夫氏が、橋戸家に保存されていた病院棟新築時の上棟式の写真を届けて下さいました。さっそく大きく伸ばして、玄関正面に展示しましたが、その後も橋戸夫妻は、「勝手におせっかいに来ました」と母屋の純子さんを日常的に訪ね、屋根の点検や神棚の修繕などから掃除、洗濯、料理まで純子さんの心強いサポーター役を買って出てくれています。
 
明治中頃建設の母屋は、初代橋戸修造氏が棟梁として請け負い、その後の土蔵、納屋や病院棟の建設、台所や風呂場の増改築などの全ての大工仕事は、2代目の修一氏、3代目友好氏、現棟梁へと引き継がれてきました。
純子さんも棟梁夫妻と橋戸家歴代の棟梁や杉浦家の建物の話に花を咲かせ、楽しそうに懐かしみます。
「新館(病院棟)は、修いっちゃんの時かしら?」
「昭和4年だからまだ、修造爺さんだね。修いっちゃんは、まだ脇棟梁だったと思うよ。」
「そうですね。修造さんは、確か96歳まで長生きした方だったですからね」
「田富の地主の家も大部分修造爺さんがやって威勢が良かったから、息子の修いっちゃんは影が薄かったようだ。納屋と土蔵も修いっちゃんは修理位だったと思うよ」
「温室を造った昭和31年には、もう友好さんも一緒でしたね」
「俺の親父は婿だったから修造爺さんや修いっちゃんから厳しく鍛えられたようだね。一緒の若い大工も百姓の方がよっぽど楽だって、辞めたって。あの頃は道具箱を担いで現場まで通ったから、ここまでの往復もキツかったし、杉浦医院は普通の家より、1階も2階も天井が高い分屋根が高くて、怖がって辞めた大工もいたようだよ」
「そうそう、伯夫さんには三鷹の妹や弟の家までお願いしましたね」
「健一さんの時は、妹さんの家から通ったなー。大工の仕事は、こうして残るから、修造爺さんの仕事はタイシタもんだと思うね。その点ノコギリもロクに使わん今の大工なんか、大工じゃねーな」と、 伯夫さんは、現代建築の大工仕事は性に合わんと橋戸工務所は息子に任せ、伝統技術が求められる神社仏閣の飾り細工の仕事だけを今はやっているそうです。
「代々の手仕事を町が保存して、こんなにきれいにしてくれて、俺たちもうれしくて見に来るだよー」と土蔵の改修にも目を細めてくれますが、建物を介して数代に渡って親戚以上の親交が現在まで継続され、お茶飲み話に故人の作品と思い出を語り合うという、本当の意味の「供養」が、こうしてまだ生きていることも実感できる純子さんと橋戸夫妻の会話です。