2011年1月28日金曜日

杉浦醫院四方山話―22 『武田麟太郎―2』

 「山梨ゆかりの作家と作品」を収蔵・展示してきた山梨県立文学館ですが、武田麟太郎については、これまで、一度も取り上げられていないようなので、この機会に、興味のある方の「再読や初読」のきっかけになればと、武田麟太郎の略歴と作品を紹介してみます。

 「武田麟太郎は、明治37年(1904年)大阪市に生まれ、旧制三高を経て東京帝国大学仏文科に進みました。同人雑誌『真昼』の創刊など、文学活動と共に帝大セツルメントや労働運動にも加わり、昭和4年、律動的で無駄のない文体と複雑な構成をもつ新しい表現形式で「暴力」を発表、プロレタリア作家として一世を風靡しました。その後、転向して、井原西鶴から学んだ独自の作風で「日本三文オペラ」「銀座八丁」「井原西鶴」を書きました。1933年(昭和8)には川端康成、小林秀雄らと『文学界』創刊に参加。その文学活動は、終生、市井に生きる人々を愛して、これらの人々の哀歓をありのままに描く作風に徹していました。 戦前のファシズムの嵐の中で「人民文庫」を創刊して、当時の文壇にあって抵抗の文学を志し、戦後、武田文学の開花が期待されながら昭和21年に死去。田宮虎彦は武田文学を「あくまで権力に反逆しようとする逞しさ」とともに「市井事ものを書き続けて得たものは虚無と絶望だった」と麟太郎の死後、解説しています。そして「虚無と絶望を克服した時に、武田麟太郎のほんとうの出発点があったはずだ」と42歳で急死したこの作家を惜しんでいます。 池波正太郎や藤沢周平の元祖ともいうべき武田麟太郎の「市井事もの」。昭和8年に発表した短編『うどん-初恋について』は、うどん屋の娘に抱いた中学生の恋心を描いたものですが、市井に生きる人間への武田麟太郎の眼差しが素直に伝わります。

 主人公の中学生、若山清吉が「つるや」の馴染客になったのは偶然のことで、学校からの帰途、うどんを食いに立ち寄ったのがはじまりである。「つるや」の近所にいる同級生の山下秀雄を誘って、道々、文学の話を語りつつ行くのである。「つるや」には看板娘、17歳のおとみがいる。「文学をやるからには、生命かけて恋愛をやらんとあかん、シリヤスになっ」と山下に励まされて、若山はおとみに艶書を書く。おとみの母親は、若山が中学校へ通っているので、将来は安泰な金持ちの坊ちゃんとみたのである。彼女は「つるやには借金が3000円ばかりある。おとみと一緒にさせてやるから、こちらの苦しい台所を救ってもらいたい」と言いだす。中学生の若山清吉は、そこで「はた」と行きづまった。これは大人でなければ解決できない話で、今の自分には問題にもならぬことだ・・・と。