江戸時代後期、各地でさまざまな仏を彫り続けた木喰上人は、1718年に甲斐の山村(現・山梨県身延町丸畑)に生まれ、日本全国を行脚し1808年に亡くなりました。ですから、今年は木喰上人生誕300年の年になります。これを記念して身延町では、工芸館で木喰展を企画しているようですが、山梨に限らず全国で記念イベントが開催されることと思います。
それは、木喰は22歳で出家し、56歳のとき諸国巡礼の旅に出て、60歳を過ぎてから仏像作りを始めと云われていますが、木喰が訪ねて仏像を彫ったのは、北海道から九州、四国、佐渡が島に及び、約30年間で1000体を超える仏像を遺したといわれているからです。
木喰上人が彫った仏像は、それまでの仏像とは違う独創的な作風で、口元に笑みを浮かべたものが多いことから、「微笑仏」と呼ばれていますが、地元庶民の信仰を受けてきたものの仏像として広く知られるようになったのは、柳宗悦が起こした民芸運動の中からでした。
大正12年1月、柳宗悦は、友人の浅川巧の誘いを受けて、甲府市の小宮山清三氏が所有する「朝鮮の陶磁器」を観る為に山梨県に来ました。
柳宗悦は、小宮山家で朝鮮の焼物を鑑賞したのですが、暗い庫の前にあった二体の彫刻に目が留まり、「口許に漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない!」と、即座に心を奪われたといいます。座敷にもう一体「南無(弘法)大師」の像があり、その折はじめて「木喰上人」の名を聞かされたといいます。柳宗悦の思いがけない驚きに対して、小宮山氏は「一体贈りましょう」と申し出たそうです。
小宮山氏が柳宗悦に贈ったのが「地蔵菩薩」像だったことから、この地蔵菩薩像が現在も日本民芸館に展示されています。
この甲府の小宮山家での奇縁により柳宗悦は、木喰上人の研究に入り、木喰上人と微笑仏は、広く知られるところとなりました。結果、微笑仏は貴重な仏像として取引もされ、木喰上人が巡礼の中で世話になった各地に残した微笑仏は、地元から次々と消えていったと云われています。
小宮山清三氏が柳宗悦に贈った「地蔵菩薩像」(日本民芸館収蔵) |