2015年6月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―427『林正高著・寄生虫との百年戦争』1

 林正高先生から毎日新聞社刊行の著書「寄生虫との百年戦争」とNHK教育テレビに出演された映像資料を新たにご寄贈いただきました。VHSテープの映像資料は、DVD変換を依頼しましたが、テープにカビが発生しているためテープ洗浄が必要で時間がかかっていますが、仕上がり次第映像の内容等ご紹介します。

 

 先ずは、腰巻には大きく「1億2000万人を救いたい!」とある「寄生虫との百年戦争」について報告します。

  「1億2000万人を救いたい!」は、林先生の執筆動機でもありましょうが、執筆を勧めた毎日新聞社の担当者の思いでもあるのでしょう。


 この「1億2000万人」という数字は、日本で終息した「日本住血吸虫症」の患者が、1985年現在、全世界には未だ1億2000万人もいるとWHOが発表している数字です。

 山梨での終息後、林先生はフィリピンに蔓延していた日本住血吸虫症の患者を救う活動を24年間続けてきましたが、この本はその活動の詳細記録でもあります。

 

林先生は、前半の10年間は政府開発援助=ODAの専門医としてフィリッピンに赴き現地で治療や指導に当たり、後半の14年間は、非政府組織=NGO「地方病に挑む会」を林先生が立ち上げ、先生の知識と技術を現地の医者に伝えたり、多くの患者の命を救ってきた治療薬購入の募金活動について記していますが、同時になぜ林先生がこの活動をするようになったのか?先生の価値観を育んだ生い立ちから日本での地方病終息の歴史についても知ることが出来ます。



 今回は、その「日本での地方病終息の歴史」について、林先生の鋭い視点をご紹介します。

 「日本住血吸虫症」の学名は、世界で初めて病気の原因が寄生虫によるものだと云うことを1904年に桂田富士郎博士と三神三朗氏が現甲府市大里町の三神医院で虫体を発見して証明した事によりますが、これは一面では「富国強兵政策がシスト対策を促進した」と、林先生は看破しています。

≪当時の日本は、日清戦争、日露戦争に向けて「強い兵隊」を作らなければならない事情にあり、この病気の影響が大きな問題となりました。その原因を突き止めるようにと、軍部から時の県令、知事に報告されたこともあって、この奇病の発見に弾みがつくことになったのです。≫と。



 また、1913年(大正2年)のミヤイリガイ発見後、着々と進められたミヤイリガイ絶滅の官民挙げての諸施策や1931年(昭和6年)の寄生虫予防法の制定、1938年(昭和13年)からの土水路のコンクリート化で減少を辿った地方病も

≪太平洋戦争中と敗戦後には手がつけられずに、中断しました。この約6年間くらいの中断によってシストは、また、まんえんしてしまいました。ぶりかえしたのは、戦争中から敗戦直後です。戦後にはシスト患者が史上一番増えた、と言われております。≫と、戦争が地方病終息にストップをかけ、敗戦による混乱が患者を増大させた事を指摘して、「戦争」状態に入ることは、国民の生活や命は二の次にされると云う真実が、地方病と云う具体的な事例を通しても統計的に明らかにしています。


 この後、進駐してきたマッカーサー占領軍の衛生班406部隊が甲府に9年間常駐し、「人類の名においてこの病を終息させよう」と取り組んだ結果が、終息に拍車をかけた歴史も記されていて、シスト発見から終息まで「戦争」が大きく関与していた歴史を林先生は静かな文体で教えてくれました。


*この本で、林先生は「日本住血吸虫症」と寄生虫「住血吸虫」を合わせて「シスト」と表現しています。