難関の医師開業試験も三朗氏は英世と同じ年にストレートで合格しましたから、学業の優劣は無かったものと思われますが、その後の医者としての生き方、姿勢の違いは、死後一層浮き彫になっていて、我が郷土の先輩が、野口英世でなく三神三朗氏であることを私はうれしく、誇りに思います。
杉浦健造・三郎父子も「医は仁術である」を体現した医師であったことは、多くの患者さんが証言しています。
この「医は仁術である」は、 江戸時代の学者・貝原益軒の「養生訓」で、医師のあるべき姿を「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て志とすべし」と説いたことから、江戸時代の格言かと思っていましたが、同じような考え方は、平安時代から説かれていて、日本の伝統的な医業の戒めのようです。
三神三朗 (1873 - 1957) |
健造先生には、一人息子の健氏がいましたが、健氏が「僕は前世悪いことはしていないので、医者にはならない」と医学部進学を拒否すると「この仕事は、そういう人間には出来ないから好きな道に進め」と寛大だったそうです。
これも「医は仁術である」の精神を良しとする者が医者になるべきだという健造先生の信念からだったのでしょう。
三神三朗氏によって改良され、駆虫効果があり副作用も抑えたスチブナールは、多くの患者さんの命を救う特効薬になりましたが、大変高価だったため「地方病で苦しみ、治療代で苦しむ」と云う二重苦が、貧農に多かった患者さんの実態だったそうです。杉浦父子と同じく三神三朗氏も「患者は診ても蔵は建てない」と、お金のない患者さんには無料で治療して命を救っていました。その「患者は診ても蔵は建てない」と云う、三神医院の院訓ともいうべき基本姿勢は、代々に引き継がれていますから、「医は算術なり」と皮肉られる現代にあって、この名言といぶし銀のような三神三朗氏の人生は、一条の希望の光です。