2012年8月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―170 『論争で学ぶ』

 大量に生産された「団塊の世代」と称される私の世代は、一クラスに60人前後がひしめき、一学年12クラスと文字通り「塊(かたまり)」として扱われてきましたので、粗製乱造された世代でもあります。それはそれで、マギレテいれば通過でき、教育も管理も行き届かない居心地の良さもあり、個人的には恨み辛みなど全くありません。ですから、同級生と云っても顔も名前も知らなかったという事もお互い様です。
しかし、同級生の誰もが知っている際立った秀才とか美形と云った少年少女は存在しました。高校の同級生、末木文美士君は、誰もが認める秀才で、休み時間などプロレス技をかけ合って喜んでいた私たちを尻目に、新書や文庫本を静かに読みふけって、16、7歳にして大学者の風格を漂わせていました。東大でインド哲学を学び、そのまま東大教授となり退官後、国際日本文化研究センター教授として京都に移り、現在も仏教学の第一人者として活躍中です。

末木文美士氏の近刊著書→

 プロレス仲間の同級生から「末木君が、石原慎太郎の大震災天罰論に賛成するような文章を新聞に発表して、ネット上で批判されている。面白いよ」と教えてくれました。「末木が何で慎太郎を」と早速検索して、その「面白さ」に引き込まれてしまいました。これは、真っ当な論争が持つ面白さで、対立する異論を読むことによって、より良い結論がより分かりやすく整理されると云う【正反合(せいはんごう)】の法則を実感できる面白さでした。
末木君が提示した一つの判断と、それを批判する判断の正・反二つの判断が統合され、より高い判断へ到達すると云う、ヘーゲルの弁証法哲学を想起させる論争でした。末木君が歳若い面々からツイッターやブログと云う電脳サイトで批判され、それに応えるべく未経験のツイッターやブログという相手の土俵にも乗り、弁明、反論、解説し、更なる「再批判も歓迎」して「正反合」を重ねていく・・・私には、吉本隆明と埴谷雄高の「コム・デ・ギャルソン論争」以来の読みながら考えさせられる論争でした。それは、両者が真摯な姿勢で、人品、学識、詰まった思いを提示し合う中で、両者のみならず読者をも高い次元へと誘っていく貴重な学習機会にもなっている意味でも一読に値する論争です。前話のゴルフに続き仏教学や3・11の捉え方でも、甲州の地は、日本のオピニオンリーダーを輩出している「風土」であることを実感できます。